パラオまで1万9800円。エイチ・アイ・エスの超格安航空券を見つけたので即購入。2016年3月に初めて訪れた。
戦跡に関心がある者として、パラオでどうしても行きたかったのがぺリリュー島だ。この島は1944年、フィリピン攻略の足掛かりとして占領を目指す米軍と、これを阻止しようとする日本軍の間で激戦の場となった。
15年4月に天皇・皇后両陛下が慰霊のため、ぺリリュー島を訪問した。メディアで大きく取り上げられたこともあり、日本人の訪問者がそれ以降、急増した。この日の日帰りツアーも日本人だけで十数人が集まった。パラオの中心地コロールから船で1時間ほど。エメラルドグリーンの海がまぶしい。
島内はマイクロバスで移動する。運転手背後の右側に座っていたら、ガイド氏に「そこは天皇陛下が座られた席です」と指摘された。ちなみにごく普通のシートである。
ツアーでは日本軍の弾薬庫を流用した軍事博物館を見学後、海軍航空隊司令部跡、95式軽戦車、朽ち果てたゼロ戦、米軍の水陸両用車両、米軍が上陸したオレンジビーチなどを見て回る。
現在は樹木が生い茂る島も、戦争当時は米軍のすさまじい艦砲射撃と爆撃で丸裸となったという。海軍航空隊司令部跡は砲爆撃で徹底的に破壊されていたが、楕円形のトイレの穴が並んでおり、兵士の日常を彷彿とさせる。
ぺリリュー島守備隊の指揮官は中川州男大佐。満州から転戦した精鋭部隊を率いた大佐は、セオリーどおりの水際撃滅作戦を取らなかった。島の中央部の山岳に何重にも陣地を構築し、米軍の艦砲射撃と爆撃の多くを無力化した。急傾斜地では米軍も戦車を投入できなかった。
ぺリリュー戦における米軍の兵力は日本軍の6倍、火力は数百倍ともいわれ、米軍最精鋭といわれる第1海兵師団長のリュパータス少将は2〜3日で片づくと豪語していた。しかし実際の戦闘は70日以上続き、昭和天皇による嘉賞は11回に及んだ。
中川大佐が最後に自決した「大山」の山頂から見下ろす島は小さく、2カ月以上の戦いが行われていたとは想像しがたい。さらに34人は47年4月まで投降せず組織的抵抗を続けていたのだから、言葉もない。
垣間見える戦後の影響
ツアーの翌日からは、コロールを拠点に無人島などを巡った。夜の食事は毎日、コロール周辺で取ることになる。
海に囲まれたパラオだが、魚のほとんどは冷凍された輸入品だ。パラオで一番といわれる日本料理店に行ったものの、刺身は魚の質、包丁の技術ともに残念ながらいま一つである。それよりも町中のアサヒ野球場脇にある屋台のハンバーガーのほうが、はるかにおいしかった。こんなところからも戦後、パラオが米国の文化の影響を強く受けたことが垣間見えてくる。
野球場のすぐ横に「特二式内火艇」と呼ばれる水陸両用戦車が放置されていた。パラオの人々は誰も、この戦車に興味がなさそうだ。
しかし戦争の記憶が年々薄れつつあるからこそ、こうした「負の遺産」をそのまま残してほしいと強く感じた。























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