「或る列車」ルート変更に見るJR九州の「地元愛」 地産地消は当たり前、鉄道利用しなくても…
博多―由布院間でコース料理を堪能
目抜き通りの先に壮麗な由布岳を望む、九州随一の温泉地・由布院。その玄関口・由布院駅から、「或る列車」が発車する。雄大な景色を見ながらのコース料理を想像しながら乗り込むだけで、非日常の興奮が身を包む。ゴールドに輝く列車が博多を目指して動き出すと、オリジナルのユニフォーム姿の乗務員がウェルカムドリンク、そして前菜をテーブルに運んでくる。続けて魚料理、メインの肉料理、スイーツ、締めくくりは一口サイズのミニスイーツ。南青山「NARISAWA」のオーナーシェフ・成澤由浩シェフ監修による至高のコース料理だ。そんな逸品を、ゆっくりと走る列車の中で、窓の向こうの九州の大自然を借景に食す。至福の瞬間は続く――。
「或る列車」は週末を中心に博多―由布院間を1日1往復。運行時間はゆったり約3時間だ。明治時代の“幻の豪華列車”をモチーフに2015年8月に誕生して以来、九州を代表する観光列車の1つとして人気を集めてきた。そんな「或る列車」だが、21年秋に初めてのリニューアルを経験している。
「それまではずっとスイーツを提供する列車として走ってきました。それでも大変ご好評をいただいていましたが、愛される列車であり続けるために、昨年秋にスイーツではなくコース料理を提供するスタイルにリニューアルしています」
こう話すのは、JR九州で「或る列車」をはじめとする観光列車(D&S列車)を担当する鉄道事業本部の加藤邦忠さん。客層が女性中心に偏りがちなスイーツから、老若男女誰もが楽しめるコース料理への変更を行った。併せて運行ルートもデビュー以来初めてとなる博多―由布院間になっている。
「『或る列車』にとっていちばんいいルートはどこだろうかと考えた結果、由布院という温泉の町を目的地、出発地にするのがいいだろうという結論になりました」(加藤さん)
ただ、スイーツからコース料理への変更は、現場で大きな負担が発生した。車内で提供される料理は、専属のスタッフが事前に下ごしらえなどの準備を終え、最後の仕上げを車内で行う必要があるからだ。「或る列車」の料理を実際に調理する小野寿洋料理長は言う。
「成澤シェフは、列車の中で提供する料理だからといって一切の妥協はしません。レストランで食べるホンモノのコース料理を列車の中で、というコンセプト。とはいえ、車内の設備は限られていますから、メニューが決まったらどこまで事前に準備をして、どこからを車内で仕上げるか、何度も繰り返し試作する。この作業が、想像以上に大変なんですよ(笑)」
例えばこうだ。21年度冬季のメニューの魚料理として、魚介類のスープが提供されている(21年11月〜22年2月)。その場合、事前にある程度魚介類に火を通した段階で真空パック。それを車内に持ち込み、湯煎でゆっくりと温める。そして直前に最終の火入れをしてベストな状態で提供する。
「盛り付けも揺れる車内でも完璧にしなければいけません。こればかりは慣れの部分もありますね(笑)。ただ、列車は途中で対向列車行き違いのための停車があったりするので、停車のタイミングを把握して繊細な作業はそこでするなどの工夫はしています」(小野料理長)
すべては成澤シェフの手がけた最高の料理を最高の状態で提供するため。
「とくに、スイーツと違ってコース料理では温かいものを温かい状態で提供する必要がありますから、シェフはもちろん料理を提供する乗務員も、最初はかなり苦労したと聞いています」(加藤さん)
こうした人たちの見えない努力で感動する列車は出来上がる。
軸足は、鉄道ではなく「地域」に置く
由布院駅を出発した「或る列車」は、着々とコース料理が進む中で、途中でとある駅に停車した。その駅は、日田市内にある夜明駅。とくに観光地があるわけでもない、小さな無人駅だ。そしてこの駅では乗客が車外に出て散策することができるという。
「曜日によって違うのですが、夜明駅のほかには田主丸駅、筑後吉井駅、豊後森駅で車外に出ることができます。実は、以前の運行では車外に出るタイミングはなかったのですが、今回のリニューアルに当たって改めました。というのも、列車に乗ることそのものを楽しんでいただきたいのですが、途中で外に出ることなく『うちの料理、おいしいでしょ』では一方的な気がしまして。そこで、少しの時間ですが、車外を散策いただけるようにしています」(加藤さん)
夜明駅のホームには“夜明の鐘”というオブジェがあって、乗客が鳴らすことができる。一部の駅では、地元の人たちのもてなしがあるのも特徴だ。
「私もD&S列車を担当するようになって、全国各地の観光列車に乗りました。その中で、やっぱり旅の楽しみの1つは地元の人との触れ合いにあると思うんですよ。A地点からB地点に行く、それだけではなくて、地元の方のおもてなし。その時間が、なんだかんだでいちばん心に残るんですよね。そういう機会を提供できる列車でありたいと、そう思っています」(加藤さん)
加藤さんの言葉からは、“地元への思い”がひしひしと伝わってくる。「或る列車」で提供される料理の食材はほぼすべて九州産だ。カラフルな貝殻と濃厚な味わいが特徴のヒオウギ貝を「或る列車」に提供している大分県佐伯市の後藤猛さんは次のように話す。
「佐伯の海は、プランクトンが多くて付着物がつきやすいんです。でも、貝殻の美しい見た目も楽しんでいただきたいので、一枚一枚手作業で洗って磨いていました。でも、これだけ手をかけていてもなかなか注目されなかったんです。それがJR九州に使ってもらい、有名な料理人に調理してもらえて……。ホームページでも丁寧に説明してくれて、大切にされているなと感じます」
「或る列車」で使用する食材のほとんどが、九州の厳選された旬のもの。そもそもの原点に「九州を元気にする、地域を元気にする」ことがあるからだ。
「僕らのDNAはそこにありますからね。九州の活性化のために、列車を走らせているんです」(加藤さん)
そして加藤さんは続ける。
「正直なところ、コロナ禍もあって鉄道事業は観光列車だけでなく全体的に厳しいです。だからといって、厳しいので列車に乗ってくださいというのは企業側の論理なんですよね。それではお客さまに響かない。鉄道に乗ってもらうためには、まずは地域を元気にすることが本当の近道なんじゃないかと思うんです。だから、まずは地域に軸足を置いて、地域の皆さんと一緒に列車をつくっていく。それが大事だと考えています」
地域の人たちのおもてなしがあって、地域の食材を使い、地域の魅力を伝える列車。そこにはすべて、地域のために、という原点がある。
「まずは地域のための列車なんです。地元の方たちに喜んでもらうために、列車を走らせる。『或る列車』に乗ったお客さまが、由布院が楽しかったといって次はクルマで行くことになっても、それはそれでいいんです。由布院が元気になるんですから。九州が元気になって、人も街も活性化されて、鉄道の旅も増える、そんな循環のために努力を続けます」(加藤さん)
「或る列車」は由布院から峠を越え、日田市内を抜けると南に耳納連山を見ながら走る。久留米を出た後、久大本線から鹿児島本線に入ってターミナル・博多へ。その途中、地元の人たちが列車に向かって手を振ってくる。家の軒先から。踏切待ちの合間に。特別に待ち受けていたのではなく、目の前を通ったから何げなく。そして列車の乗客もまた、手を振り返す。言葉は交わさなくても、気持ちが通じる一瞬の触れ合い。それを含めて、1つひとつのすべての瞬間が、「或る列車」と九州の鉄道のあふれる魅力なのだろう。