医療現場の最前線支える「日本製マスク」誕生秘話 医師も驚きの着け心地、高い感染防御性を実現
感染症との戦いの武器「N95マスク」の消失
2020年4月、日本で最初の緊急事態宣言が発出された頃、すでに医療現場は窮地に陥っていた。最も危ぶまれていたのは、医療従事者を感染から守る医療用品の不足だ。国循研究所の西村邦宏医師は、こう振り返る。
「当時は未知の感染症ということで、厳しい防護措置を取る方針が決まりました。しかし肝心の医療用マスク、フェースシールド、サージカルガウンなどの必需品が、まるで蒸発したかのように医療現場から消失。本来使い捨てにすべきものを、数カ月使い回していました。運よく倉庫で、2009年の新型インフルエンザ流行時に確保していたN95マスクを1000個ほど発見し、品質の劣化に懸念がありつつもそれを使うしかない状況でした」(西村医師)
最大の懸念は、「N95マスク」の枯渇だった。国際規格を満たし、感染症患者の治療現場で一般的に使われる、ウイルス吸い込みの抑制効果が高いマスクだ。
「医療従事者は、日常的に患者と接触します。とくに心臓マッサージの際などは飛沫が大量に飛散するので、一般的なサージカルマスクでは感染の危険性が高い。また国循には、感染に極めて弱い先天性心疾患の小児患者や、心臓移植を待つ患者が多く入院しています。院内感染抑止の観点からも、N95マスクはなくてはならないものなんです」(西村医師)
N95マスクが手元にないため、十分な感染抑止策が取れない。そんな状態で働かざるをえなかった現場の、焦りと不安は想像にかたくない。
「儲けは度外視でOK」ダイキン社長もゴーサイン
このままでは、いずれ手遅れになるかもしれない――これは、国循だけの問題ではなく日本中、いや世界中の医療機関の問題である。危機感を募らせた国循は行動に出た。西村医師と国循オープンイノベーションセンター所属の白石医師とが中心となり、医工連携により感染対策用の医療用品不足を解決すべく、プロジェクトを発足させることとなった。
「国循には、約20の企業や組織が結集する研究拠点『オープンイノベーションラボ』があります。ここでN95相当の高性能マスクを開発するべく、入居している企業の中から、医療用の3D臓器などを製作するクロスエフェクト社と協業しようと考えました。同社にマスク本体を製作してもらい、別途、ウイルスを集塵して呼吸もしやすいフィルターを開発しようという狙いでした」(西村医師)
しかし、フィルター開発の協力先について心当たりはゼロ。悩んだ西村医師は、ふと「ダイキンに相談してはどうか」と思いついたという。
「エアコンや空気清浄機のグローバルメーカー・ダイキンなら、医療用のフィルターも作れるのではないかという単純な発想でした。ダイキンとは以前から付き合いがあり、声をかけやすかったことも理由の1つです」(西村医師)
西村医師から相談を受けたのが、ダイキンの研究所に所属する武田信明氏。「医療現場の困窮を目の当たりにして、ぜひダイキンが力になりたいと思いました」と振り返る同氏は、二つ返事で西村医師の依頼を受諾。早々に社内の調整を進めた。
「当社が医療用マスクの製造に携わるのは初ですが、空気清浄機用のフィルターをはじめ、病院や工場などで使われる高性能フィルターは扱っています。当社の社長からはすぐに『儲けは度外視でOK。社会貢献として取り組むように』とゴーサインが出ました。とても心強かったですね。まずダイキンのグループ会社でフィルターを取り扱っている日本無機が、試作用として無償で材料を供給してくれました。さらに社内を当たったところ、化学事業のグループ会社・共栄化成工業が、自社の技術を医療用マスク製造に応用できないか検討していることなどを耳にしました。これらを結集し、ダイキングループが一丸となってフィルター開発を開始しました」(武田氏)
「捕集効率95%」でも空気が通りやすく、という難題
ダイキンは2020年4月、早速フィルターの開発を正式に開始。キャリア40年以上の社員と、TIC(テクノロジー・イノベーションセンター)フィルタグループのグループ長というベテラン2人を中心に進められた。今回の開発を統括する化学事業部の前田昌彦氏は、「2人の士気の高さには驚かされた」と語る。
「2人とも通常業務の傍ら、昼夜を忘れて開発に取り組んでいました。ミーティングでは、自主的に行った調査の内容を生き生きと説明しており、気迫を感じましたね。それだけ『ダイキンのフィルタで社会の危機を救うんだ』という使命感が強かったのでしょう。
とはいえ、開発は一筋縄ではいきませんでした。N95マスクには、微細粒子の通しにくさを示す値が厳密に決められており、『0.3ミクロンの粒子で、捕集効率95%以上』をクリアしなければいけません。この値は、フィルターの密度を高めれば簡単にクリアできます。問題なのは、密度の高さに比例して空気の通りが悪くなり、呼吸しにくくなってしまうこと。医療従事者は長時間マスクを着けて業務に当たりますから、絶対に改良が必要です」(前田氏)
しかし、ダイキンが長年培ったノウハウと技術、担当者の熱意が推進力となり、これまでにない急ピッチでこの難題をクリア。想像を超える速さで開発が進んだという。
「繊維を極限までのばして細くし、さらにフィルターをプリーツのように立体的に織り込んで密度を上げました。結果、一般的なN95マスクと比較して、およそ6倍の面積のフィルターを入れ込むことができました」(前田氏)
こうして、量産化モデル構築のメドが立ったのは2020年6月、わずか2カ月後のことだった。もちろんダイキンだけではなく、各社が部材の最適化設計に尽力。企業の垣根を越えた協創がかなったからこそ、異例のスピードで開発を完遂できた。
ビジネスとして、採算が取れるものでは到底なかった
こうして完成したN95相当(※)の感染対策用高機能マスク「LUFKA™」。2021年6月にはついに医療機器メーカー、ニプロからの販売がスタートした。その高い性能について、西村医師はこう語る。
※米NIOSH規格の取得申請中
「通常のN95マスクは静電気の力も使って粒子を捕集するのですが、湿度が高いと静電気が生じにくくなり、捕集効率が下がります。そのため今回は、物理的にろ過する方法を採用。捕集効率約99%を達成しつつ、長期保存にも耐えうる製品が実現しました。さらにアルコールなどの消毒剤で除染することで、繰り返し使うことができます。
そして何より驚いたのは、着け心地です。一から設計しただけあって、日本人の顔の大きさや形状に合わせて成形されており、実際に着けた国循のメンバーはみんな息のしやすさに感激しています」(西村医師)
現場の期待をはるかに超えるフィルターを開発したダイキン。西村医師は、その技術力はもちろん、底力と熱意に感銘を受けたという。
「国循とダイキンのプロジェクトには補助金が出た(※)ものの、試作品を何回も作ってもらうなど、ビジネスとして採算が取れるものでは到底なかったはずです。ダイキンの技術力はもとより、ものづくりに携わる方々の善意と熱意、地道な努力に心を打たれました」(西村医師)
西村医師は、今回の教訓を未来に生かすことが重要だと語る。
「これまでN95マスクは、そのほとんどを海外からの輸入に依存しており、急な需要の増大には対応できませんでした。しかし今後新たなパンデミックが起きた場合に備えて国内に医療用マスクの生産体制を整え、供給量を確保しておくことは必須です。今回開発したマスクが近い将来、従来のN95マスクに代わるかもしれない。このマスクを量産化することは、日本だけではなく、世界中の医療従事者の助けになるはずです」
ダイキンの熱い思いと技術力、そしてプライドから生まれた医療用高性能マスク。先が見えない感染症との戦いが続く中、それは一筋の光となり、過酷な医療現場を照らしている。
※本開発は、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)の令和2年度医療研究開発推進事業費補助金<補助事業名:ウイルス等感染症対策技術開発事業<実証・改良研究支援>、研究開発課題名:新型コロナウイルス感染防止用新型高機能マスク<N95相当>の開発および実証化に向けた研究>のもとで実施