「気候変動はひとごとじゃない」キリンの危機感 「食」「医」に続く、第3の柱はSDGsから
気候変動の影響は、農作物をはじめ人間の健康にまで広がる懸念が…
先日、日本政府は「2050年までに、温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする」方針を発表した。日本の新しい成長戦略の柱に「経済と環境の好循環」を掲げ、環境問題への対応に本腰を入れていく方針だ。気候変動による影響は計り知れず、気温上昇だけでなく干ばつ、台風、洪水などの異常気象が頻度、強度ともに増し、農作物にも甚大な被害が出ると予測されている。こうした状況を鑑み、先駆けて具体的な目標を宣言しているリーディング企業がある。その一例が、キリンだ。
「飲料と酒類の製造・販売を主力事業とする当社にとって、気候変動の影響はひとごとではありません。農産物の収量減少などは、まさに事業を直撃するリスクです」と溝内良輔氏は力を込める。
それゆえ同社の環境問題への取り組みは、社会の動向を先取りする形で進められてきた。例えば、13年時点ですでに、社会価値と企業価値を両立させ、企業が本業ビジネスを通じて社会課題を解決していく「CSV」の概念を経営戦略の中心に据えた。
「同時に、『キリングループ長期環境ビジョン』を発表しました。この内容をブラッシュアップすべく、20年2月にはより高い目標を掲げた『キリングループ環境ビジョン2050』の策定に至りました」(溝内氏)
非財務情報は、キリンと投資家のコミュニケーションツールである
「キリングループ環境ビジョン2050」は、17年に設置された「気候関連財務情報開示タスクフォース」(TCFD※1)の提言がベースになっている。このTCFD提言は、気候変動が与える影響をいくつものシナリオに基づいて分析し、年次報告書などにおいて財務インパクトや対策を開示するよう企業に求めたもの。キリンがTCFDへの賛同を表明したのは18年末、日本の食品会社として初のことだった。TCFDは今年、新たに刊行したシナリオ分析のガイダンス作成に際して、15企業にヒアリングを行った。その中に世界の酒類企業、そして日本企業では唯一※2キリンが選ばれている。
同社はシナリオ分析の結果を、「環境ビジョン2050」に反映させた。例えば、温室効果ガス排出量の削減は「50年までにバリューチェーン全体で50%削減」を目指してきたが、ネットゼロへと上方修正。RE100※3にも加盟し、2040年までに使用電力を再生可能エネルギー100%にする。これらの情報開示は、キリンと投資家との対話にも一役買っている。長期的な成長を見据えた経営を行うためには、それを是認してくれる株主の存在が不可欠だ。
溝内氏は「ESG投資を典型例として、機関投資家は企業経営の持続性や長期的なリスクマネジメント、非財務情報を評価する傾向にあります。とくに30~50年のロングタームを前提とする投資家は、当社のCSV経営に対するよき理解者。シナリオ分析を基に開示する情報は、まさにその指標となるものです。当社と機関投資家をつなぐ有益なコミュニケーションツールになるでしょう」と、シナリオ分析の重要性を説く。
機関投資家に選ばれ、またCSV経営を実践していくに際して、いかにレジリエンスを高め、事業拡大の柱をつくりだすか。そこで強みになるのが、キリンの発酵・バイオ技術だ。レジリエンスの部分では「植物バイオ技術」が、事業拡大の柱としては「免疫研究」が、この新しい分野をリードする存在になっている。
「TCFD提言に基づくシナリオ分析の結果、今後世界中にさまざまな影響が出てきそうだとわかってきました。免疫維持をサポートするプラズマ乳酸菌や熱中症対策清涼飲料といった、当社の技術や製品を通じてこうした課題に応えていくことが、事業の成長にもつながると考えています」(溝内氏)
発酵・バイオ技術で将来の事業の柱を育てる
植物バイオ技術の代表例は、キリンが80年代にスタートした「植物大量増殖技術」だ。同社は研究を重ね、植物の茎、芽、胚、イモを大量増殖させる4つの独自技術を開発。実用場面で使える「袋型培養槽システム」の開発にも成功した。中でもジャガイモの大量増殖技術は、具体的活用が検討されている。
「ジャガイモは国内自給率が高く、大切な食糧資源です。一方で、種子植物に比べて増殖率が低いうえ、ウイルスに弱く病気が広がりやすいという課題がありました。キリンの技術がこの問題を克服し、食糧課題の解決に貢献できることに、大きな意義を感じます」と語るのは、キリンホールディングス R&D本部 キリン中央研究所の間宮幹士氏だ。
植物大量増殖技術のポテンシャルは高い。キリンは現在、クロマツを大量培養して、東日本大震災で甚大な被害を受けた東北地方沿岸の防災林を再生するための苗木作りに取り組んでいる。さらに産学連携の共同研究では、宇宙空間に近い環境でジャガイモやレタスの増殖に成功している。気候変動対応としても、温暖化に強い農産物が開発された際に、植物大量増殖技術を使って短期間で作付面積を増やすことにも貢献できるかもしれない。
今後は、植物から医薬品原料などを大量生産する「植物スマートセル」にも挑戦していくという。
「医薬品の生産に動物細胞を利用する場合、動物細胞には人間にも感染するウイルスなどが存在する可能性があり、混入しないようにする必要がありますが、植物細胞には人間にも感染するウイルスは確認されていません。ハラル対応にもなりますし、当社のCSV経営全体への貢献度も高い。植物にはまだまだ知られていない力があります。それをいち早く活用することで、『医と食をつなぐ』事業を、競合優位なビジネスに育てられるはずです」と、間宮氏は期待を寄せる。
醸造哲学「生への畏敬」を胸に世界のCSV先進企業となる
一方、キリンの免疫研究で今注目されているのが「プラズマ乳酸菌」だ。これはキリンが独自に開発した、健康な人の免疫維持をサポートするもの。免疫の司令塔に働きかけるという点で、ほかの乳酸菌とは異なる。免疫機能で初の機能性表示食品として、この8月に消費者庁に届出が受理された。
「今後、具体的にどのような病気が世界のどこではやるのか、それに対抗できる薬やワクチンがあるのか、まったく予測できません。未知なるものに対して人間の防衛力を高めるには、健康な状態における免疫力を維持することが大事。そこに役立つ『プラズマ乳酸菌』ならば、世界に向けて市場が拡大できます」と、溝内氏は期待をかける。
キリンは20年に、環境省の「ESGファイナンス・アワード・ジャパン」の環境サステナブル企業部門で金賞を受賞した。環境に係る情報開示の姿勢、内容のレベルが高く、CSV経営を起点とした経済価値と社会価値の融合という理念が十分に浸透し、さまざまな取り組みが日々の企業活動の中に根付いていることが評価されたためだ。
キリンは、なぜここまで徹底してCSVにこだわるのか。そこには、創業当初からの醸造哲学「生への畏敬」がある。「飲料の原料はむろん農作物ですし、発酵も酵母を利用しています。今後、事業ポートフォリオが組み変わることがあっても、当社が自然の恩恵にあずかって事業活動を行っていくことに変わりはありません。環境問題に尽力し、人と社会に役立つ活動をしていくことは、変わらない当社のパーパスです」と、溝内氏は決然と語る。
発酵・バイオ技術を基に、ポジティブインパクトを世界に広げるキリン。同社はこれからも、持続可能な社会の実現に向けて最善を尽くしていくことだろう。
※1 G20の要請を受け、金融安定理事会(FSB)*により、気候関連の情報開示および金融機関の対応をどのように行うかを検討するため設立された「気候関連財務情報開示タスクフォース(Task Force on Climate-related Financial Disclosures)」(出典:TCFDコンソーシアム)。世界全体では金融機関をはじめとする1484の企業・機関が、日本では314の企業・機関が賛同の意を示している(2020年10月28日時点)。
※2 Task Force on Climate-related Financial Disclosures Guidance on Scenario Analysis for Non-Financial Companies (October 2020)
※3 電力の再生可能エネルギー100%化を目指す企業で構成される、国際的な環境イニシアチブ