男性に対するソロハラは、今まで可視化されていなかっただけで、男性もこうしたソロハラを受け、嫌な思いをしていたといえるのです。女性と同様、男性に対するソロハラもケアしていかなくてはいけません。
ただ、この女性市議の言い分の是非はともかく、彼女の言う「悪意はない」というのは本心でしょう。そして、この悪意のない「善意の結婚強要」こそが厄介なのです。
こうした「善意の結婚強要」が蔓延するのは、日本が1980年代まではほぼ100%が結婚する皆婚社会だったことが関係しています。文字どおり、結婚することが当たり前な時代でした。その世代の人たちにしてみれば、結婚をしないという選択肢はなかったわけです。
今から30年前にあたる、1987年の第9回出生動向基本調査(厚生省=当時)によると、男性側の結婚の利点としては「社会的信用」が22%。これは「精神的安らぎ」に次いで2位でした。男にとって結婚とは社会的信用を得ることだったわけです。逆にいえば、未婚男性には信用がなかったということです。現在は「結婚=社会的信用」という意識は大幅に減少していますが、皆婚時代に強く刷り込まれた「男は結婚してこそ一人前」という規範は心の奥底に根強く残っています(40代独身者が「幸せになれない」根本原因)。
そういう意味では、結婚とはある種の宗教に近いものなのかもしれません。未婚者に対して、「結婚しなさい」と言いたがるのは、宗教における勧誘の「入信しなさい。救われますよ」と似ていると、そう感じるのは私だけでしょうか。結婚を薦めてくる既婚者たちは、結婚教の宣教師であり、勧誘者なんです。
そもそも結婚しようがしまいが放っておけばいい話なのに、彼らはじっとしていられません。自分の信じることこそが絶対に正しく、それがわからない人は「かわいそうだ、救ってあげないといけない」と、そんな心理が働くんでしょう。大館の女性市議が「親心」だと言ってるのもまさにそれです。
そうした善意のおせっかいが、悪いわけではありません。かつて、それは日本の婚姻システムを機能させていたものだからです。お見合い結婚比率が過半数を占めていた時代は、地域や職場にいる「おせっかいおばさん」が何組ものマッチングを実現させていました。だからこそ、皆婚が維持されていたわけです。
「結婚教」に入信しないと、途端に異分子扱い
しかし、何度説得しても「結婚しない」、つまり「入信しない」ことがわかると、この勧誘者は途端にその人間を異分子扱いします。それは、いわば異教徒を敵視するのと同じです。そっとしておいてくれるどころか、「結婚しないあの人には何か問題がある」というレッテルを貼り、陰での偏見を助長し、あまつさえ攻撃するようになってしまうこともあります。これは、集団の中のハミダシ者を異分子扱いして、いじめの対象にする心理と変わりません。
「多様性を認めよう」と言いながら、相変わらず標準性・統一性を強く求め、「結婚すべき」という自分たちの信じる価値観を、一方的に絶対的正義として押し付けてしまうこと。これが、表面上善意として行われていることに、ソロハラの本質的な脅威があります。言った側は「そんなつもりはなかった」と軽く考えてしまうでしょう。冗談で済ませようとするかもしれませんが、ソロハラされた側は、「結婚できない自分は何か欠落しているかも……」と、精神的に深い部分をえぐられているのです。これは未婚者の不幸度の高さとも無関係ではないはずです。
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