村上春樹は、なぜ「同じ話」を書き続けるのか 彼が「騎士団長殺し」でも挑んだテーマとは?

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村上春樹氏の7年ぶりの長編『騎士団長殺し』。大部だが、そろそろ「読み終えた」というファンも多いのでは(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
村上春樹氏の新作『騎士団長殺し』の発売から、早くも1カ月が過ぎた。「第1部 顕(あらわ)れるイデア編」「第2部 遷(うつ)ろうメタファー編」をあわせた発行部数は130万部を超えている。今回の作品で、そして過去の長編小説で、村上春樹が一貫して挑戦を続けてきた「主題」とは何か。村上春樹についての著作を持つ評論家の栗原裕一郎氏が読み解く。

 

2月24日に、村上春樹の新作小説『騎士団長殺し』(新潮社)が発売された。第1部「顕れるイデア編」、第2部「遷ろうメタファー編」の2巻組で、あわせて1000ページを超える大長編である。『1Q84』以来7年ぶりの長編という惹句が帯には書かれており、メディアもそう喧伝していたが、前作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)も見方によっては長編と言える長さのものだった。

そろそろ人気にも陰りが出るだろうというささやきが聞こえたりもしたものの、発売日を迎えてみれば、書店が繰り広げるお祭り騒ぎは相変わらずだったし、その騒動を報道するマスコミも嬉しげであった。書評も発売後わずか2週間程度ではや20本くらい出ている。

『多崎つくる』のときには、深夜の早売り書店で一般読者と競うように購入した本をバイク便を飛ばして評者に届け翌日〆切で書評を書かせるなんてことをやっていた新聞もあったが(ちなみに朝日新聞で、評者は批評家の佐々木敦だ)、さすがに今回はそこまで無茶をする媒体はなかったようだ。その意味では騒ぎも落ち着いてきたと言えなくもないか……と思っていたら、とある作家に発売日の1日で読み切らせ翌々日〆切で書評を書かせた文芸誌があった。ちなみに新潮社の文芸誌『新潮』で、評者はいしいしんじだ。新潮社は『騎士団長殺し』の版元である。

いしいの書評に限らず、版元のプロモーションも力の入ったもので、春樹フィーバー健在といった感だった。まあ、何にせよ経済が回るのはいいことだ。経済が回ることと小説の内容は別の問題であるにせよ。

いかにも「村上春樹」的な今回の新作

読者の感想や数々の書評でも口々に指摘されているように、『騎士団長殺し』は、村上春樹の過去作をきわめてよく彷彿させる作品になっている。

主人公の「私」は36歳の画家で、抽象画を描いていたが、生活のために肖像画を請け負うようになり、その業界ではそこそこの成功を収めている。「私」はある日、妻・ユズに理不尽に離縁を申し渡される。いたたまれなくなり家を出た「私」は車で北海道と東北を放浪したあと、小田原の山中にある孤高の日本画家・雨田具彦の家に仮住まいする。雨田具彦は美大時代からの友人・雨田政彦の父で、その縁から借りられることになったのだ。雨田具彦は認知症が進み療養所に入っており、彼のアトリエは空き家になっていた。

「私」は、アトリエの屋根裏に隠されていた雨田具彦の未発表の大作を発見する。その絵は『騎士団長殺し』と題されていた。『騎士団長殺し』の封印を解いたのと前後して、「私」は深夜に不思議な鈴の音を聞く。音の出所はアトリエの敷地にある「穴」だった。石室のようなその穴は大きな石で塞がれていた。

「誰かがその石の下で鈴のようなものを鳴らしているのかもしれない。救助信号を送っているのかもしれない」

「私」は石を除け穴を解き放つ。そうして現実と非現実を結ぶ回路が開かれてしまうこととなる。

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