ヘイトスピーチの法的規制は間違っている 「自由」という名の下の言論統制に過ぎない

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特定の意見の表明を禁じても、その意見はなくならない。水面下で表現され続け、さらに有害なものになる。中東やほかの地域でテロの社会的・政治的基盤を成すものは、外国人差別的な言論を公的に禁じただけでは、決して消えない。

思想を法律で取り締まることは、公的な議論を抑制しかねない。その思想は、米国では今も生き続けている、いかなる意見にも反論の自由を保障するには、どんなに不愉快なものであろうと、その表現の自由は許されなければならないという考えの根本にあるものだ。

暴力を扇動することは米国でも禁止されている。表現の自由を保障する米国憲法修正第1項も、それが差し迫った暴力のリスクを作り出すと立証できる場合には表現の自由を守らない。

言論の自由は、「不快な」言論の自由でもあるべき

大虐殺の否定や外国人差別的な思想は不愉快だ。だが、必ずしもテロのような脅威を生み出すものではない。米国も含め、ほとんどの社会では、おおよそのコンセンサスによって、上述したような意見の公の発言が制限されている。このコンセンサスは時代とともに変化する。

漫画家やアーティスト、ブロガー、活動家、コメディアンが、この適切さのコンセンサスに物を申すことがある。そしてそれは時に激しい怒りを買うものだ。だが、それが暴力を助長したり、ほのめかすものでないかぎり、法律で禁止することは利益よりも害のほうが大きい。

1977年、米国・ナチ党は多くのユダヤ人が住むシカゴ郊外のスコーキーでデモを計画していた。現地の裁判所は、ナチスのかぎ十字章の表示やビラの配布、ナチスの制服の着用を禁止した。

だが、この禁止は米国憲法修正第1項の侵害であるとして、米国自由人権協会(ACLU)が異議を唱えた。自分が不快に思う意見を禁止することを政府に許せば、逆に自分の意見が禁止されたときに、それに異議を唱える自分の権利を弱める、というのが彼らの主張だった。

つまり言論の自由とは、暴力を助長したり、ほのめかすものでないかぎり、不快な言論の自由でもあるべきなのだ。公然な侮辱に対する欧州のほとんどの政府の見方は、米国の憲法より厳しいものとなっている。そこに制限を加えるのは大きな間違いだ。テロ攻撃はすでに人々の生活や財産に十分に被害を与えている。政府が市民の自由に干渉することでさらに状況を悪化させる大義名分はない。

週刊東洋経済2015年2月28日号

イアン・ブルマ 米バード大学教授、ジャーナリスト

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Ian Buruma

1951年オランダ生まれ。1970~1975年にライデン大学で中国文学を、1975~1977年に日本大学芸術学部で日本映画を学ぶ。2003年より米バード大学教授。著書は『反西洋思想』(新潮新書)、『近代日本の誕生』(クロノス選書)など多数。

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