バブルを起こせなくなった投機家たち いま金融市場で何が起きているのか(下)

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中央銀行の金融政策にあまり反応しなくなっている、今のマーケット。投機家たちは、何を考えているのだろうか(写真:ロイター/アフロ)
(上)のあらすじ 2月の第3週には「日銀金融政策決定会合」とFOMC(米連邦公開市場委員会)の議事録が公表された。
だが金融市場はほぼ無反応。リーマンショック直後は、金融政策と中央銀行が世界の議論を席巻したはずだが、いまや中央銀行の政策をまじめに注目する人はほとんどいないに等しい。
何かが変わっているのだろうか。実体経済が順調なので、何も起こりようがないのだ。筆者の視点はそこから金融市場の価値と価格の関係へ行き、金融市場の本質は幽霊であり、そうした本質が、金融政策が「無視」されるようになっている一つの要因だと分析する。
(上)「無視される」黒田総裁とイエレン議長はこちら

金融資産価格は、価値という軸をもたない

価格というのは、現実に成立した数字である。しかし、よりどころはない。価格が間違ってしまった場合は、それを修整するものがないのだ。

一方、価値とは、価格のよりどころとなるものであり、使用価値が最もわかりやすい軸だ。しかし、交換経済が発達し、貨幣あるいは貨幣的なモノが経済の中心に思えるようになってくる中で、マルクスの労働価値説は、投入労働量にそのよりどころを求めたのであり、一方、新古典派理論は、効用にその軸を求めたのである。

しかし、価値という軸を持たない価格である金融資産価格は、どこへでも浮遊し続けてしまう。だから、バブルになるのであり、バブルと呼ばれるのだ。バブル的な価格設定、という言葉はあっても、車や洋服には価格の限界がある。自己満足の価格を超えられないのであり、個人の満足という歯止め、軸があるのだ。

一方、資産価格には軸はない。皆が上がると思えば上がり、上がれば、その価格が現実となり、真実となり、そこから価格はさらに浮遊する。だから、どこにも軸がなく、どこにも留まりようがなく、真実は存在しないのだ。

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