(第50回)腹八分の思想(その2)

山崎光夫

 飲食の節度は腹八分が適度である。
 相場の世界にも腹八分のすすめがある。株の売り買いは飲食と同様、難しいものがあるようだ。中でも、売りのほうが至難という。
 「買いは3日待て」
 というから、待っていればそれで済む。
 だが、売りのほうは、
 「利食いは腹八分」
 といわれるらしい。儲けも満腹で終わらせたいのが人情だろうが、それにこだわっていると売り時を逃す。大儲けを狙っているとついつい売れなくなる。逃がした魚は大きいのが通り相場。大勝を狙わず、利食いも腹六分くらいの精神で決断すれば利益は出るだろう。

 医療も高齢者にとってみれば、腹八分が適当ではないか。以下は、私の身近で起きた出来事である。

 知人の85歳になる母親が元気がないという。リビングの椅子に腰かけ、何もせずにぼんやり一日過ごしているらしい。いよいよボケてしまったかと心配した。 それにしてもあまりの急変に、その原因らしきものをさぐってみるとピロリ菌除去に行き着いたという。
 85歳の母親が多少の胃のもたれを覚え、胃カメラの検査を受けたところ、ピロリ菌の存在がわかり、除去したという。
 ピロリ菌除去では、通常、2週間にわたり除菌薬を服用する。母親はこの除菌療法を受けて以来、どうも元気がないという。考えてみれば、母親はこの85年間、ピロリ菌と共存してきたのである。今さらピロリ菌を除去しても始まらないだろう。むしろ、除菌療法による弊害のほうに目を向けるべきではなかったか。
 その人にはその人特有の腸内菌のバランスがあり、それを壊してまで除去する必要があるのか。いわば、“腸内人生”がそこにある。
 ピロリ菌を発見し、それ除菌だ、と最新医学を駆使したい医者の気持ちもわからなくはないが、相手は高齢者である。臨機応変の対応が求められる。

 別の知人の88歳になる父親の場合、昼間でも気分はぼんやりし、さらに、ふらつきを覚えて外出もできなくなった。原因は睡眠薬だった。高齢者にふらつきは危険以外の何物でもない。新聞紙1枚すら、"段差"と感じてつまずき転倒するのが高齢者。ふらつき、転倒、骨折は、寝たきりに陥る3点セットといえる。
 父親は睡眠薬のため、翌日の夕方過ぎまで半睡状態で意欲も低下した。薬の作用が残存しているとしか判断できなかった。だが、父親の眠れないという訴えに医者は漫然と睡眠薬を処方していた。
 そこで、知人は思い切って睡眠薬量を半分に減らし、様子を見つつ服用を止めてみた。すると、数日で昼間のふらつきやまどろみがなくなり、散歩する意欲も出てきた。
 老人になれば、熟睡度も下がって睡眠時間が減ってくるのも当たり前というものだ。
 その現実に気づき、父親はそれ以来、腹八分の睡眠が得られればそれで満足、という境地に達したようだ。
 昼間のふらつきの恐怖は体験した者でないとわからないというのが父親の実感だった。

 さらに、行き過ぎた降圧剤の処方の話も聞く。血圧が下がりすぎれば意欲がなくなるのは必定。新たな“医原病”にも思える。医者も降圧に完璧を求めず、ほどほどにできないものか。
 医者にも患者にも、“腹八分の医療”が求められる時代に思えてならない。
山崎光夫(やまざき・みつお)
昭和22年福井市生まれ。
早稲田大学卒業。放送作家、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。
主な著書として、『ジェンナーの遺言』『日本アレルギー倶楽部』『精神外科医』『ヒポクラテスの暗号』『菌株(ペニシリン)はよみがえる』『メディカル人事室』『東京検死官 』『逆転検死官』『サムライの国』『風雲の人 小説・大隈重信青春譜』『北里柴三郎 雷と呼ばれた男 』『二つの星 横井玉子と佐藤志津』など多数。
エッセイ・ノンフィクションに『元気の達人』『病院が信じられなくなったとき読む本』『赤本の世界 民間療法のバイブル 』『日本の名薬 』『老いてますます楽し 貝原益軒の極意 』ほかがある。平成10年『藪の中の家--芥川自死の謎を解く 』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている。
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