平清盛を隆盛に導いた「壮絶な身内ケンカ」の中身 武士が実権を握る原点となった「保元の乱」

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保元の乱に深く関わってくる公卿の藤原頼長は、保安元(1120)年に関白・藤原忠実の第2子として生まれた。17歳のときに、内大臣となるなど、異例の出世は人々が驚くほどであった。学問にも情熱を注ぎ「日本第一の大学生、和漢の才に富む」(『愚管抄』)と評された。

久安5(1149)年に左大臣に任じられ、翌年には養女が近衛天皇に入内するなど得意の日々を送る。父・忠実も頼長を重んじ、長男の忠通から藤氏長者(藤原氏を束ねる代表者)を剥奪し、頼長を氏長者としたのである。

これに対抗するように、兄の忠通も養女を近衛天皇の中宮としたので、兄と弟の対立は先鋭化していく。頼長の政治は厳格で、規律にうるさく、他人に対して峻厳だったので「悪左府」(悪の左大臣)と呼ばれた。この時代の「悪」という言葉は、単なる「悪い」という意味合いではなく、精強さを表すものでもあった。

しかし、頼長は鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の家を破壊するなどしたため、孤立していく。久寿2(1155)年7月、近衛天皇が崩御すると、頼長に追い打ちをかける出来事が起こる。頼長が近衛天皇を呪詛していたという風聞が流れたのだ。これにより、頼長は失脚する。

そして翌年(1156年)、鳥羽法皇が崩御した。崩御後、法皇と対立していた崇徳上皇が頼長と協力して、挙兵しようとしているとの噂が立った。禁中の警護は固められ、物々しい雰囲気となる。

本当にクーデターを考えていたのか?

それにしても、崇徳上皇と頼長が同心して、武力で皇位を奪おうとするとの情報は本当だったのであろうか。鳥羽法皇が崩御する直前、崇徳上皇は見舞いに駆けつけているし、崇徳が頼れる武力も微弱なものであり、クーデターなど彼らは考えていなかったとの説が有力だ。

「崇徳上皇側を追い詰めたい」との思いを秘めた、後白河天皇を擁立する信西(藤原通憲)が仕組んだ罠とも考えられている。信西の妻は、後白河天皇の乳母を務めていた。この時代、乳母と乳母に養育された子との結び付きには強固なものがあった。

源頼朝の乳母の1人に比企尼(ひきのあま)がいるが、比企尼は頼朝が伊豆国に配流されてからも、長年にわたり、頼朝に仕送りを続けるなど支援し続けた。頼朝も尼の支援に深く感謝し、平家に対し挙兵してからは、比企一族を重用している。

そのような乳母と乳母によって育てられた子との関係を考えれば、信西らが後白河天皇を支援・擁立したのも当然と言えば当然のように感じる。

とはいえ、信西は後白河天皇のことを「暗君」「愚昧」(九条兼実の日記『玉葉』寿永3年3月16日)と非難したと伝えられており、どこまで信頼関係があったかは若干疑問ではある。ちなみに、信西は後白河の長所として、一度聞いたことは長年忘れないこと、一度決めたことは周りが何と言おうとやり遂げることを挙げたという。

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