ハサミムシの母の最期はあまりにも壮絶で尊い 生まれてきたわが子にすべてを捧げて逝く

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しかし、母親の仕事はこれで終わりではない。ハサミムシの母親には、大切な儀式が残されている。

ハサミムシは肉食で、小さな昆虫などを餌にしている。しかし、孵化(ふか)したばかりの小さな幼虫は獲物を獲ることができない。幼虫たちは、空腹に耐えながら、甘えてすがりつくかのように母親の体に集まっていく。

これが儀式の最初である。

いったい、何が始まろうとしているのだろうか。

最期は自分の命と引き換えに…

あろうことか、子どもたちは自分の母親の体を食べ始める。

そして、子どもたちに襲われた母親は逃げるそぶりも見せない。むしろ子どもたちを慈(いつく)しむかのように、腹のやわらかい部分を差し出すのだ。母親が意図して腹を差し出すのかどうかはわからない。しかし、ハサミムシにはよく観察される行動である。

何ということだろう。ハサミムシの母親は、卵からかえったわが子のために、自らの体を差し出すのである。

そんな親の思いを知っているのだろうか。ハサミムシの子どもたちは先を争うように、母親の体を貪(むさぼ)り食う。

残酷だと言えば、そのとおりかもしれない。しかし、幼い子どもたちは、何かを食べなければ飢えて死んでしまう。母親にしてみれば、それでは、何のために苦労をして卵を守ってきたのかわからない。

母親は動くことなく、じっと子どもたちが自分を食べるのを見守っている。それでも、石をどければ疲れ切った体に残る力を振り絞って、ハサミを振り上げる。それが、ハサミムシの母親というものだ。

母親は少しずつ少しずつ、体を失っていく。しかし、失われた体は、子どもたちの血となり肉となっていくのだ。

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遠ざかる意識の中で、彼女は何を思うのだろう。どんな思いで命を終えようとしているのだろうか。

子育てをすることは、子どもを守ることのできる強い生き物だけに与えられた特権である。そして数ある昆虫の中でもハサミムシは、その特権を持っている幸せな生き物なのである。

そんな幸せに包まれながらハサミムシは、果てていくのだろうか。

子どもたちが母親を食べ尽くした頃、季節は春を迎える。そして、立派に成長した子どもたちは石の下から這(は)い出て、それぞれの道へと進んでいくのである。

石の下には母親の亡骸(なきがら)を残して。

稲垣 栄洋 静岡大学農学部教授

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いながき ひでひろ / Hidehiro Inagaki

1968年静岡市生まれ。岡山大学大学院修了。専門は雑草生態学。農学博士。自称、みちくさ研究家。農林水産省、静岡県農林技術研究所などを経て、現在、静岡大学大学院教授。『身近な雑草の愉快な生きかた』(ちくま文庫)、『都会の雑草、発見と楽しみ方』 (朝日新書)、『雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方』(亜紀書房)など著書50冊以上。

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