オスマン帝国がキリスト教徒と共生できた理由 イスラム世界における共存と平等を読み解く

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オスマン帝国では、1908年の青年トルコ革命において憲法と議会が回復されると、つづく第2次立憲政時代(1908~1918年)には、「諸民族の統一」というスローガンが旗印として掲げられます。

この時期に活発化した政党活動や言論活動を通じて、オスマン帝国に「成熟した市民社会」が実現する可能性があったはずでした(藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政――青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』名古屋大学出版会、2011年)。

しかし、当時のオスマン帝国は、西洋列強の激しい圧力にさらされていました。帝国内のキリスト教徒臣民の存在は、列強や周辺のキリスト教諸国にとって干渉の格好の口実でしたし、キリスト教臣民の側もそれを利用しました。

1911年のイタリアとのリビア戦争、1912年のバルカン戦争、そして1914年の第1次世界大戦と、度重なる戦争に巻き込まれたことも、ムスリムと非ムスリムがともに国内政治や市民社会を運営していくことを困難にしました。

結局、オスマン帝国は1922年に滅亡しました。その継承国家のひとつであるトルコ共和国では、ギリシャとの住民交換などを通じて、均質なムスリム・トルコ人による国民国家を目指すことになります。多民族・多宗教が共存し、かつ平等であること――現在のいずれの国家でも十分に実現できているとはいえない――を目指した、オスマン帝国の理想はここについえました。

国民国家トルコとイスラム的価値観

今のトルコ共和国では、人口のほとんど、じつに98パーセントをムスリムが占めています。ですから、宗教をめぐる対立は、ムスリムと非ムスリムではなく、世俗派と親イスラム派とのあいだに見出されます(ただし、宗教的な対立関係は一見わかりやすいですが、それのみにとらわれるべきではありません。その裏に政治や経済をめぐる対立が潜んでおり、宗教に関係ない合従連衡が、選挙では行われています)。

そのトルコでは、2002年以降、親イスラム政党である公正発展党が長く政権の座についており、イスラム的な価値観が広まってきています。公営の施設でお酒が飲めるところはなくなりましたし、断食月の間は、日中閉店するレストランが多くなりました。これらは、イスラム的価値観に社会を寄せていこうという動きの表れであることは、間違いありません。

とはいえ、例えばISのように「奴隷制を復活させよ」とか、「身体刑を制定せよ」という主張は、トルコでは決して受け入れられないでしょう。オスマン帝国がそうであったように、ある程度成熟し安定しており、宗教についても「角の取れた」かたちの運用が伝統として定着した社会では、いくら宗教的に権威のあるテキストに書かれていても、極端な施策は許容されないのです。

イスラム的とされるさまざま要素のいずれをムスリムが内面化するのか、いずれが社会に適用されるのかについては、歴史的経験の積み重ねや、価値観の異なる集団との不断の関係を通じて形成されてゆくものです。

イスラム世界を理解するのに、イスラム教は欠かせないファクターです。しかし、「イスラム教はこういう教えだから、この事例はこう解釈できる」などと、一言ですっぱり説明してしまうような解説を見かけたら、いったん距離を取って、「それがはたして、一般化して語っていいものなのか?」、言い換えれば、主語が大きすぎないか、特定の地域・特定の時期・特定の階層のムスリムについてのみ語っていないかということを、検討してみる必要があるでしょう。

異なる他者との共存だけではなく、平等をも実現しようというのは、たやすい道ではありません。現在のどの国も、十分に達成できているとは言えないのが現実です。

共存と平等を実現させる即効性のある特効薬はなく、共同体間の利害調整を、ケースバイケースで粘り強く進め、衝突や摩擦を可能な限り減少させてゆくこと。そしてそれを、歴史的経験として社会に蓄積させてゆくこと。オスマン帝国の歴史からわたしたちが学べるのは、そうした積み重ねの重要性なのです。

小笠原 弘幸 九州大学大学院准教授、中東工科大学客員准教授

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おがさわら ひろゆき / Hiroyuki Ogasawara

1974年北海道生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専門は、オスマン帝国史およびトルコ共和国史。著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容――古典期オスマン帝国の系譜伝承をめぐって』(刀水書房、2014年)、『オスマン帝国――繁栄と衰亡の六〇〇年史』(中公新書、2018年)。編著に『トルコ共和国 国民の創成とその変容――アタテュルクとエルドアンのはざまで』(九州大学出版会、2019年)。

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