木下サーカスを支える「裏方の力」が凄すぎた 営業や調整のため公演「半年前」に現地入り

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木下サーカスの公演準備で、もう1つ目を引くのが地元の「福祉施設」へのアプローチだ。毎回、地域の福祉施設を利用している障がい者1万人を招待している。自治体にとって手薄な福祉事業への支援は大きな魅力でもある。1万枚のチケット代金は、前売り自由席に換算して2000万~3000万円に上る。それだけの負担をしても障がい者を招く。障害者の無料招待は、販促活動を超えた、木下家が守り続ける生命線になっている。

木下家の慈善活動は、1923年に起きた関東大震災後に初代の唯助氏が罹災者を天幕に収容し、公演に無料招待したあたりにまでさかのぼる。福祉に積極的に取り組んだのは唯志氏の父で二代目の光三氏だった。第2次大戦中、光三氏は、中国山西省の戦地で瀕死の重傷を負い、九死に一生を得た。戦後、「サーカスに国境はない。友好を深めたい」と、ハワイ公演を手始めに東南アジア各国を巡業した。

当時、戦争の傷跡は深く、東南アジアには「反日感情」が渦巻いていた。唯志氏の姉で副社長の嘉子氏は、1957年、中学2年で初めて同行したフィリピンのマニラ公演を、次のように回想する。

「日本人は憎まれている。治安も悪いから、絶対に1人で出歩いてはいけない、と父から言われていました。マニラに入り、外出するときはボディガードがつきました。エレベーターに乗ると、じろじろ見られ、日本人とわかれば危害を加えられそうで怖かった。街のレストランで食事をしていても、『ジャパニーズ』という声が聞こえると、父は『さぁ出よう』と途中で切り上げ、席を立ったほどです」

サーカスを通じた国際親善

実際に公演準備をしていた団員が何者かに拉致されかけた。はたして無事に興行ができるのかと危ぶまれた。嘉子氏が語る。

「マニラ公演は、マグサイサイ大統領夫人の子ども病院建設を支援し、寄付するために父が企画したものでした。そのことが周知されると、私たちを取り巻く雰囲気が変わったんです。意図を伝える大切さを痛感しました。会場周辺の警備も強化され、治安が好転。スペイン統治時代のなごりをとどめるアリーナで幕が上がると、連日、大盛況でした」

光三氏は、フィリピンのほかにタイ、マレーシア、シンガポール、香港、そしてアメリカ統治下の沖縄と、戦場となった場所で立て続けに公演を催した。日本文化の流入を禁じていた韓国でも公演を企画している。ソウル公演は九分九厘決まりかけていたが、政治的理由で実現しなかった。光三氏は、海外公演と福祉支援について、こう語り残している。

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