西郷隆盛と大久保利通が決別した本当の理由 「征韓論」をめぐる対立だけが原因ではない

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そのため、膨大な支出を要する対外戦争だけは絶対に避けなければならないと考えていた。あるいは、大久保は「相手が朝鮮だけならどうにかなるかもしれないが、朝鮮王朝の背後には清国やロシアもいる。それらの大国が朝鮮側について参戦すれば、日本は間違いなく国家存亡の危機に見舞われる」とまで考えていた。

西郷と大久保の考えは、戦いを避けるという意味では一致しているようにもみえる。しかし、西郷が「自分が出向けば朝鮮を絶対に説得できる」と思っていたのに対し、大久保は「朝鮮との交渉がうまくいくわけがない」と思っていたとみられ、両者の思惑には相違があったと考えられる。

また、明治4年(1871)に岩倉使節団が出発するとき、使節団(岩倉、大久保など)と留守政府(西郷、板垣など)は「留守政府は、やむをえざる事件以外は改革を一切差し控えるべし」という約束を交わしたが、西郷は学制改革や徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革など、約束を無視して新たな制度を次々と実行に移している。明治政府が発足してまもない時期だったのでやむをえないとはいえ、この件がきっかけで、大久保は西郷に対して複雑な思いを抱くようになったのかもしれない。

大久保は簡単には引き下がらなかった

このように、大久保には西郷の遣使を中止させたいという意思があったが、当時の大久保は参議ではなかったので、国策を決定する資格がなかった。しかも、当時の参議の大半は西郷を支持していたので、これを覆すのは容易ではない。そこで、大久保と同様に西郷の遣使に否定的だった岩倉具視の助けを借り、大久保もまた参議の地位に就いた。

こうして西郷と並び立つ立場となった大久保は、明治6(1873)年10月14日に開かれた閣議の席で西郷の朝鮮派遣に反対し、どちらかといえば征韓に消極的だった参議を味方に引き入れ、どうにか互角まで持ち込んだ。だが翌日、西郷の威勢に押された太政大臣の三条実美が西郷派遣を再決定してしまう。こうして、後は明治天皇の裁可を得るのみとなった。

しかし、大久保は簡単には引き下がらなかった。10月17日、三条が極度のストレスで倒れると、大久保は岩倉を太政大臣代理に据えるよう画策する。そして、天皇は西郷が大のお気に入りだったので、岩倉を通して「西郷が朝鮮に派遣されたら、確実に彼は命の危険にさらされるでしょう」と吹き込んだ。

このルール無視の強引な手法で、最終的に西郷の朝鮮派遣は中止に追い込まれた。土壇場で覆された西郷は職を辞し、ほかの征韓・遣韓派の参議もこれに続いたのである。

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