大阪人が独自すぎる「カレー文化」を育む背景 「大阪スパイスカレー」とはいったい何か

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時代は、「大坂」と呼ばれていた江戸期まで遡る。豊臣秀吉が築いた商売の中心地、大坂には、道修町(どしょうまち)という薬種問屋が軒を連ねる一角があった。この町で武田薬品工業など日本を代表する製薬会社が産声を上げている。薬種問屋が扱う漢方薬には、肉桂と呼ばれたシナモン、丁子と呼ばれたクローブなど、スパイスがいくつも含まれている。

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明治になると、イギリス経由でカレーが紹介され、国産カレー粉が開発されるようになっていく。その第1号は、1905(明治38)年に誕生。売り出したのは、大阪の薬種問屋、大和屋(現ハチ食品)である。

続いて東京の日賀志屋(現エスビー食品)が1923(大正12)年。大阪の浦上商店(現ハウス食品)が1926(大正15)年。浦上商店の創業者、浦上靖介は大阪の薬種問屋で修業経験がある。昭和初期のカレー人気を支えた3者のうち2者が、大阪の薬種問屋を経験している。

自由な発想と進取の気性が育った

また、大坂では商人が力を持ち、自由な発想と進取の気性が育った。その精神は、明治になって経済と政治の中心地が東京へ移っても、変わることなく受け継がれていった。スパイスの入手がたやすく、独自の国産カレー粉が生まれた土地で、自由な精神を持った人々が、日本人好みのカレーを育てた。1968年に初のレトルト食品、ボンカレーを生み出した大塚食品も大阪の企業である。

もしかすると、東京から新幹線で2時間半と遠く、影響を受けにくいこともよかったのかもしれない。新しい文化はいつも中心から外れたところで生まれる。次々と流行が入れ替わり、世界中の人が流入して各国料理が食べられる東京に比べ、今、大阪のスケールは小さい。情報量も少ない。ともすれば大量の情報に振り回されがちな東京から距離を置いた大阪だからこそ、独自の発想を温め育てることができたのかもしれない。

そして、もちろん大阪は食い倒れの街として有名である。グルメタウンとしても発展し、現在もおいしい店が多い町として評判が定着している。

江戸時代に北前船で運ばれた昆布もたくさん入った影響で、出しの旨味を好む文化も育っている。大阪を代表する粉物のたこ焼きやお好み焼きには、出しが欠かせない。出しとスパイスが融合した大阪スパイスカレーが、スパイシーな味に慣れた時代に生まれるのは必然だったといえる。

大阪スパイスカレーは、大阪の人たちが、独自の文化を育てた結果生み出された。今はインターネットを経由した情報交換が活発で、B級グルメをはじめとする地方の食文化が注目される時代だ。もしかすると、これからは地方が独自の歴史と文化を土台に育てたものを、広く発信して活力を生み出す時代なのかもしれない。

阿古 真理 作家・生活史研究家

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あこ まり / Mari Aco

1968年兵庫県生まれ。神戸女学院大学文学部卒業。女性の生き方や家族、食、暮らしをテーマに、ルポを執筆。著書に『『平成・令和 食ブーム総ざらい』(集英社インターナショナル)』『日本外食全史』(亜紀書房)『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた』(幻冬舎)など。

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