川崎「駅前」のにぎわいはなぜ続いてきたのか キーワードは「映画」と「商店会連合会」

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一方、大正時代になると、川崎は工業都市として急速に発展をはじめる。1899年から1905年にかけて大師電気鉄道(現:京急大師線)や現在の京急本線が開業。1930年代後半、日中戦争以後は南武鉄道(1927年開業・現在の南武線)沿いにも工場街ができ、同線は1938年ごろから乗客が急激に増え、駅新設や列車増発に追われた。結節点であった川崎駅もパンク状態になり、川崎市から東京鉄道局へ駅舎改築が要請され、臨時改札口の設置や2つの跨線橋増設が行われたという。

川崎駅には沿岸部の工場地帯へ向かうバスが多数発着する(筆者撮影)

こうして工場の町になった川崎では、盛り場が大いに栄えた。1941年の調査では年間延べ約57万人の遊興客が遊郭や貸座敷などに行ったという。また堀之内をはじめとした新しい盛り場では映画も流行した。バーやカフェとともに映画館があり、1936年以降には東京で映画館を多数経営していた美須鐄(みす・こう)が川崎に進出し、一大映画館街を作った。

戦後復興の立役者は映画館

太平洋戦争では川崎も空襲の被害を受け、そして戦後は全国の多くの都市と同じように闇市が栄えた。だが、川崎らしいのは映画を中心にまちが復興していったことだろう。

昼間も多くの人で賑わう銀柳街(筆者撮影)

戦前に一大映画館街を作った美須鐄は1945年に「川崎銀星座」を開業。そこから映画館を再び次々と開業させ、銀星座から北に向かう通りが栄えた。その通りは南から、「銀映会」「銀柳街」「銀座街」と名付けられ、「銀」の字から映画館が栄えたことがよくわかる。1960年ごろには川崎市内で年間延べ1200万人もの人が映画を見たという。これは市民1人が1年に30回も映画を見に行った計算となる。

戦後の混乱期から高度経済成長期へ移行する過程では、百貨店も台頭していった。川崎では戦前からあった小美屋(こみや)のほか、1955年に百貨店を開業した地元の岡田屋、翌年に横須賀から進出したさいか屋が百貨店を営み、徐々に規模を大きくしていく。さいか屋は1969年に横須賀と藤沢にもあったさいか屋の本店機能を統合し、川崎に本部をおいた。

そんな中で、1958年には国鉄の駅ビルが開業した。当初は地元商店会の反対もあり、かなり売り場面積が制限されたが、その中でも岡田屋がテナントとして広い面積を取得し、工員のまちらしく安いものを売ったという。

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