真備町浸水、50年間棚上げされた「改修計画」 政治に振り回されている間に、Xデーは訪れた

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建設予定地は倉敷市と船穂町(現倉敷市船穂町)にまたがっていたが、船穂町は柳井原堰の建設に猛反発した。第一に、治水の恩恵は上流の真備町(現倉敷市真備町)などの小田川流域、利水の恩恵は下流の倉敷市などの都市部が中心で、船穂町には大きなメリットがなかった。加えて、明治から大正時代に行われた、東西に分かれていた高梁川を一本化する工事にて、船穂町の一部の集落が貯水池の底に沈んだという苦い過去も想起された。1980年には周辺自治体が開発を促進する会を結成し幾多の交渉が続けられたものの、船穂町は慎重姿勢を崩さず計画はたなざらしとなった。

ようやく日の目を見るはずだった

ところが1995年2月、事態は急展開を迎える。船穂町が硬化させていた態度を一転させ、建設省および岡山県との間で柳井原堰建設の覚書を締結したのだ。背景には、周辺自治体に比べて開発の遅れていることへの焦りがあった。柳井原堰の建設計画の行方が定まらぬままで、大規模な都市開発やインフラ整備を実施できていなかった。同時期に進められていたポッカコーポレーション(現ポッカサッポロフード&ビバレッジ)の工場誘致も、用地買収が難航し黄信号が灯っていた。

そこで建設と引き換えに、覚書には、船穂町振興計画の実施に向けて国と県、町が協力することを盛り込んだ。バイパスや下水道の建設、農業集落の整備など計36項目、総額630億円の支援事業が並んだ。建設容認を通じて、町の未来を託した格好だ。

同時に、柳井原堰建設を1997年から開始することについても合意。2008年頃には竣工する計画だった。建設省の発表から27年、ダム建設計画はようやく日の目を見る――はずだった。

建設に向けた準備が少しずつ進んでいたさなかだった。「国が建設を進めている船穂町の柳井原堰(中略)については、本体工事未着手のこの段階で見直しを行いたいと考えております」。2002年6月10日、岡山県知事はダムの建設中止を突然表明した。倉敷市長や船穂町長でさえ「青天の霹靂(へきれき)だった」と言う突然の中止宣言。いったい何が起きたのか。

背景には、1968年の計画発表時から30年以上が経過し、社会情勢が様変わりしていたことがある。当時の倉敷市の推計によれば、1日当たりの計画水量を32.2万トンとしていたが、実際の使用量は20万トン程度にとどまり、利水としてのダムの意義は薄れていた。本来は治水対策のはずの柳井原堰だったが、倉敷市議会からは「(倉敷市に)関係があるのは(総工費600億円のうち)2割の利水。柳井原堰はメリットが本当にあるのか」という声も上がった。

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