日本人が知らずにしている人種差別の「正体」 「シャイ」という言葉に隠れた恐れ

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私の経験からいえば、日本だけでなく米国でも多くの人々が、人種問題は主に特定集団への憎悪から生じると思っている。さらにその憎悪は暴力でしか伝えられないと考えることがセットになる。そのため、日本人に外国人を憎んでいるかと尋ねれば、ほとんどの人が「そんなわけがない! ばかなことを言うものじゃない」と言うだろう。

憎悪ゼロ+暴力ゼロ=だからこの国には差別ゼロ、と考えるというわけだ。

日本人は「外国人」を恐れてはいないか

しかし、種差別は嫌悪や暴力だけの問題ではない。実は少し恐れいている、もしくは単なる理解不足ということもある。もし、前述と同じ日本人に「外国人が恐いか」と尋ねれば、純粋な気持ちで認めることもあるだろう。

「外見の違う人々を恐れるのは、自然なこと」「外国人と接したことがないし、彼らは怖いかもしれない」「外国人は英語で話すが、自分は話せないのでコミュニケーションの問題がある。もし話せば恥ずかしい状況に陥る」「外国人は、異質の価値観やモラルを持つ知らない土地から来た人たちである」「外国人は犯罪行為をし、病気を持っているし、銃を好む」――。これらは日本在住の外国人たちが何度も聞いたことがある、外国人を恐れる気持ちの言い訳の一部だ。

そして外国人への恐怖心を理由づけるように使われる表現は「シャイだから」ということ。確かに、シャイは悪い言葉には聞こえないが、「シャイであること」に人種的な要素が加われば、それは差別とほとんど変わらない態度になってしまうのだ。シャイであることが身体的な危害を加えることはないにしても、結果としてこの国の非日本人の心を傷つけている。一例を挙げれば、避ける、疎外する、犯罪者扱いをする、無視する、よそ者扱いをする、などだ。

たとえば、日本ではいまだに「外国人お断り」という店が少なからずある。「英語が話せるスタッフがいない」「ほかの客への配慮」など理由はいろいろあるだろうが、こうした店のオーナーは必ずしも外国人を憎悪しているわけではなく、単に外国人という存在をよく知らない、怖いと感じるだけのことが多い。

もちろん断られる側にとっては納得がいかない。「よそ者」として見られたことに怒りを示せば自分の責任だろうと言われる一方で、「よそ者」ととらえる人たちの恐怖心は自然なものとして許されるのか。「外国人お断り」という張り紙が、憎悪や暴力ではなく単なる恐怖の表れだと言い訳にできるのだろうか。

ここ何カ月にもわたり、外国人に対する恐れ――特に日本にいる黒人に対する恐れ――をヘイトスピーチに近いレベルで配信している日本人の人気ユーチューバーが何人かいる。彼らに対する外国人コミュニティの反応は、糾弾するものから逆に支持するものまで、いずれも激しい。動画の1つを不適切かつ攻撃的であるとして、ユーチューブ側が部分的に遮断するほどの激しさである。

ここで2つ目に挙げた、人種差別はつくりあげられたものだという点に話を進めよう。

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