「川越」が活性化のため投入した起爆剤の正体 「持続可能な街づくり」へのこだわりがある

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シャッターを閉ざす店が多く見られる中央通り(筆者撮影)

江戸時代から新河岸川の水運で江戸とつながり、“小江戸”として栄えた埼玉県中央部の観光地・川越市を訪れた観光客数は、2006年に550万人だったのが、2016年には704万人にまで増えている。都心からのアクセスのよさに加え、“蔵造りの町並み”を中心とする歴史的な景観保存・活用による、観光地としてのブランディングに成功したのが主な理由だろう。

一方で、課題もある。JR線と東武東上線が乗り入れる川越駅から西武新宿線の本川越駅一帯を中心とする市街地南部の“商業エリア”と、蔵造りの町並みなどが広がる市街地北部の“観光エリア”には人が集まるが、その結節点に当たる“中央通り周辺エリア”に人の流れが少なく、シャッターを閉ざす店が多く見られるのだ。

本稿では、“川越中央通り「昭和の街」を楽しく賑やかなまちにする会”(以下、昭和の街の会)会長の岩澤勝己さんと川越市担当部署の話を聞き、民間と行政双方による、中央通り周辺エリアの活性化に向けた取り組みについてリポートする。

かつて、にぎわいを見せた中央通り

まずは、周辺エリアの位置関係を簡単に整理しておこう。西武線の本川越駅東口から北に向かい、「連雀町(れんじゃくちょう)」交差点を経由し、「仲町(なかちょう)」交差点に至る約700メートルの県道が中央通りと呼ばれている。

「看板建築」は、通りに面した西洋風の壁面の後ろが木造家屋になっている(筆者撮影)

そして、仲町交差点のさらに北側には、いわゆる蔵造りの町並みで知られる「一番街商店街」がある。昭和の街の会が活動を行っているのは、このうちの連雀町交差点から仲町交差点に至る中央通り沿い、および中央通りから延びる路地に面するエリアで、地元の3つの商店会を中心に、現在、約70人の会員がいる。

川越には1893(明治26)年の川越大火後に、防火対策として建てられた蔵造りの町並みがあるほか、中央通りの1本東側には、大正時代の雰囲気を伝える「川越商工会議所」の洋館建築を中心に街づくりを進める「大正浪漫夢通り」がある。昭和の街というネーミングは、「明治、大正と来たら次は昭和だろう」(岩澤さん)というのもあったというが、同エリアの歴史をひもとくと、まさに“昭和そのもの”なのだということがわかる。

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