巨大ターミナル「新宿」は50年でこう変わった 超満員「酷電」の時代には騒乱もあった

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新宿駅西口地下広場から見上げた空。広場が完成したのは1966年だ(筆者撮影)

一方、1966(昭和41)年に完成した西口地下広場はデートスポットなどとして若者たちのたまり場となり、ここでもベトナム戦争反対を訴える大規模なフォークソングの集いが行われ、反戦活動家や学生、労働者など最大で4万人が集結するまでに至った。筆者も仲間たちと反戦歌を歌い「異議なーし」という当時の流行語を叫びつつこの中に加わっていた。しかし、事が重大な局面に発展するのを恐れた国は集会を禁止し、群衆は排除された。

西口広場の完成、激しい通勤ラッシュ、そして反戦デモや騒乱など、新宿駅の歴史に刻まれる大きな出来事が続いた時代が昭和40年代ではなかったかと、今つくづく思う。

高層ビルと「大人の街」

新宿大ガードの過去(上)と現在(下)。ガードの周辺はそれほど変わらないが、ビルが林立し、背景は大きく変貌した(筆者撮影)

この当時、新宿西口の超高層ビル群はまだなかった。淀橋浄水場跡地の再開発によって、その一角に1971(昭和46)年、地上47階・高さ179mの京王プラザホテルが建ち、その後林立する高層ビルの草分け的存在となった。1974(昭和49)年には「三角ビル」として親しまれている地上52階・高さ210.3mの新宿住友ビルが建設された。1977(昭和52)年にはこの最上階の回廊展望画廊で筆者の「蒸気機関車の詩」の写真展が開催されたのも、個人的な新宿の歴史の1ページである。

若者のパワーが形作った新宿の街だが、駅近くの恋文横丁や新宿二丁目、旧都電の廃線跡近くに現存するゴールデン街は大人たちの歓楽街だった。筆者は今もゴールデン街の馴染みのバーに通っている。このバーではかつて私と同じ歳の作家、中上健次や、コメディアンのたこ八郎、有名演歌歌手が同じカウンターで酒を酌み交わし、カウンターの中ではまだ無名時代の俵万智がホワイトの水割りを作っていた。

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