48歳バンドマンの「しぶとすぎる」生き残り術 結成28年、酸いも甘いも噛み分け進んできた

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「それまではバンドもそれぞれの生活も一応順調でした。だけど、後からデビューしたバンドがドーンと売れてすごいことになっているのを傍目で見ているし、自分たちが右肩上がりではないことはわかっていましたからね。そこに周囲の期待と現実のズレがはっきりとして、1998年から1年半くらいはもう、やることなすことうまくいかない状態になっていました」

それでも想定ルートは止まらない。全国ツアーの会場はライブハウスから大規模なホールにグレードアップし、空席や反響の少なさはメンバーやそれを支えるスタッフを容赦なく疲弊させていった。バンドの求心力は下がり、解散危機もあったという。2枚のアルバムをリリースしたものの改善の兆しはなく、2000年になると専属マネジャーを解雇せざるをえない状態まで事態は悪化した。

プロのバンドは正式メンバーや演奏のサポートメンバーのほか、金銭や仕事を管理するマネジャー、ライブをブッキングするライブ制作、ライブ周りのサポート全般を担うローディーや音響機材等を操作するPAエンジニア、広報や事務スタッフなど多くの人に支えられて成り立っていることが多い。それぞれの所属は、バンドのマネジメント会社だったりレーベル会社だったりフリーランスだったり、さまざまだ。とにかく大勢のスペシャリストがかかわっているわけで、マネジャーの抜けた穴は小さくなかった。

埋め合わせしたのはライブ制作スタッフとマエカワさんだった。バンドメンバーがマネジャーも兼ねる事例は周囲に見当たらない。だから、ひたすら手探りでライブや物販の収支管理を覚えた。そのノウハウは皮肉なことにすぐ役立つことになる。レーベルから契約解除を通知されたためだ。

メンバー4人、誰も辞めるとは言わなかった

4人集まって話し合いをしたところ、誰も辞めるとは言わなかった。

「あのときは31~32歳で、結婚していたメンバーもいて。おカネのこととか家族のことは口出しできないというのはあったけど、自分はバンドを続けたかった。それが皆同じだったから、『じゃあ何カ月かライブを入れていこう』となったのを覚えています」

契約解除は通知から半年後。それまで所属事務所から支払われる毎月の給料が1万円ずつ下がっていくということだった。幸いなことに、当時のディレクターが同時期に同社を辞めてインディーズレーベルを立ち上げることになり、CDのリリース元は確保できたが、給料はもう出ない。この猶予の間に自分たちだけでやれるだけのことをやってみることにした。

スタッフにいくら払えばいいのかわからない。だから、ライブ制作もマネジャーもマエカワさんが担い、ローディーの仕事は4人で分担した。つながりのあるライブハウスやイベンターの人たちに事情を話して、ブッキングしてもらったり人脈とアドバイスをもらったりした。この手探りのなかで、1台の機材車に機材とメンバーを積み込んで全国のライブハウスを回るスタイルが確立し、現在まで継続している。

また、バイトは極力やらないようにメンバーともども心掛けた。ライブの調整が困難になっていき、バンドとしての生き残りを左右すると思ったためだ。メジャーレーベルを辞める前、半年近くライブができない期間があり、動員が10分の1になった地方もあった。ブランクができると人は集まってくれなくなる。一方で、それでも聴きにくるファンの熱気のすごさも学んだ。これらの体験から、年間100本を超えるライブを行うようになったのは自然な流れだったのかもしれない。

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