日本人にとって「天皇制」は何を意味するのか 「ポピュリズム」に対抗する政治的エネルギー

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この言葉はそのまま全共闘の学生たちについても適用できるだろうと私は思う。彼らは戦前の共産主義者たちの「転向」を別のかたちで、皮肉なことに一場の成功体験として経験したのである。もしそうなら、その運動と思想が「日本的情況」内部的な事件として「思考の対象として対決される」ことが決してないのも当然である。

近代日本の知識人の「落とし穴」

話を戻す。三島由紀夫が東大全共闘に向けて「私たちは同じ現実のうちにいる。同じ幻想のうちにいる。それを解き明かすキーワードは『天皇』だ」と告げたときには、18歳の私はその真意を図りかねた。けれども、この言葉のうちには真率なものがあると感じた。この言葉の意味がわかるようになりたいと思った。そして、「侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれ」る目にだけは遭いたくないと強く思った。

予備校生だった私はそのまま立ち上がって、自宅近くの「神武館」という空手道場に入門した。数カ月後に入学した大学でも空手部に入った。天皇制のエートスを理解するためには武道修業が捷径(しょうけい)ではないかと直感したあたりは子どもながら筋は悪くない。けれども、大学一年の冬に三島由紀夫は割腹自殺し、私は暴力事件を起こして空手部を退部になり、武道修業を通じて天皇制的「情況」に迫るという少年の計画は水泡に帰した。

それから50年の歳月を閲(けみ)した。その間、私はほかのことはともかく、「日本的情況を見くびらない」ということについては一度も気を緩めたことがない。合気道と能楽を稽古し、聖地を巡歴し、禊行を修し、道場を建て、祭礼に参加した。それが家族制度であれ、地縁集団であれ、宗教儀礼であれ、私は一度たりともそれを侮ったことも、そこから離脱し得たと思ったこともない。それは私が「日本的情況にふたたび足をすくわれること」を極度に恐れていたからである。近代日本の知識人を二度にわたって陥れた「ピットフォール」にもうはまり込みたくなかった。

そういう恐怖心に駆動された生き方がはたして市民として誠実なものだったのか、あるいは学問的に生産的なものだったのかどうか、私には自信がない。でも、古希近くになって「お前はただ幻影を恐れていただけだ。お前の足をすくうような『日本的情況』など実はどこにもなかったのだ」と言われても、今さらもうどうしようもない。

今回、間接直接に天皇制をめぐって書かれたいくつかのエッセイを集めて『街場の天皇論』としてまとめることになった。これらを一読して私を「還暦を過ぎたあたりで急に復古的になる、よくあるタイプの伝統主義者」だと見なして、本を投げ捨てる人もいるかもしれない。たぶん、いると思う。こういう本を編めば、そういうリスクを伴うことはよく承知している。

けれども、長く生きてきてわかったのは、天皇制は(三島が言うように)体制転覆の政治的エネルギーを蔵していると同時に、(戦後日本社会が実証して見せたように)社会的安定性を担保してもいるということである。天皇制は革命的エネルギーの備給源であり、かつステイタスクオの盤石の保証人であるという両義的な政治装置だ。私たち日本人はこの複雑な政治装置の操作を委ねられている。この「難問」を私たちは国民的な課題として背負わされている。その課題を日本国民は真っすぐに受け入れるべきだというのが私の考えである。

ある種の難問を抱え込むことで人間は知性的・感性的・霊性的に成熟する。天皇制は日本人にとってそのようなタイプの難問である。

内田 樹 思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授

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うちだ・たつる

1950年東京都生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。凱風館館長、多田塾甲南合気会師範。著書に『ためらいの倫理学』(角川文庫)、『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書、第6回小林秀雄賞受賞)、『日本辺境論』(新潮新書)、『街場の天皇論』(東洋経済新報社)などがある。第3回伊丹十三賞受賞。

 

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