いすゞが「巨大ミュージアム」を開業したワケ

子どもたちが夢中!最新鋭ジオラマを披露

さらにこだわったのが、トラック製造工程の展示だ。量産される乗用車とは異なり、オーダーメイドの色彩の強いトラックが製品の形になるまでを体験学習できる。

顧客の要望に合わせたトラックを作り上げていくゲーム(記者撮影)

営業マンの商談を体験するゲームでは、「雪道でも走れる強いものが欲しい」「小回りがきくものがいい」といった客の要望を細かく聞き、それに見合った商品を提案する過程をクイズ形式で学べる。トラックの用途の幅広さを感じられる。

タッチパネルに映るトラックを指で広げると、車体の中にある数万の部品の間に潜っていく感覚を味わえるバーチャル図面は、迫力満点だ。藤沢工場を20分の1で再現した動くミニチュア製造ラインは、壁に貼ってある資料まで実物と同じという忠実さだ。

細部まで忠実なミニチュア製造ライン(記者撮影)

極めつけは、歴代のいすゞ車を43分の1サイズにしたミニカーを110台もずらりと並べた「いすゞ年表」。特に初期の車は現存しておらず、写真も設計図も簡単なものしかなかったが、ミニカー会社や当時の開発者に取材を重ね、一つずつ作りあげた。これでいすゞの歴史が一目でわかるようになっている。

ミュージアムに巨額投資をした理由

いすゞプラザの総合監修を務めた、コーポレートコミュニケーション部プラザグループの中尾博氏によれば、総工費は「数十億円レベル」。これだけのカネを投じて、なぜ今、いすゞは大掛かりなミュージアムを作ったのか。実は、博物館を作るアイデアは前からあった。しかし、過去の経営難を引きずってきたこともあり、予算が取れず実現していなかった。

1990年代、いすゞは苦しみ続けた。バブル崩壊後、建設・物流不振が響いたほか、アジア通貨危機に見舞われ、2002年には株価が31円まで下落した。倒産直前にまで追い込まれたが、当時の井田義則社長が、苦渋の判断で乗用車事業からの撤退や米ゼネラル・モーターズとの提携解消を断行。4000人のリストラも実施し、劇的な復活を果たした。だが社内のモチベーションは著しく下がり、社員の退社も相次いだ。

中尾氏は当時、企業イメージの刷新を担当し、いすゞの歴史を振り返る広報ビデオを作り、社内の士気向上に取り組んだ。そんな中で、会社の歴史やビジョンを社内で共有することの大切さを痛感していた。

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