皆噓をつくのに、なぜ「噓はダメ」と言うのか 森友・加計学園問題から見えた「噓の構造」

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森友学園問題に続いて出てきた加計学園問題に対して、またもや官僚たちは「下手な演技」を続けています。筆者は、「誰が悪いか」の追及以上に、追及された側の一連の言動から露呈される「ウソそのものの構造」に哲学的な関心を持ちます(写真:アフロ)

古稀を越え、すなわち人生の残り時間があとわずかになったいま現在、5歳のころからずっと思い悩んできた「死」の問題を全身全霊で探究しなければならない。そうでなければ、生まれてきた甲斐(かい)はないし、哲学をしてきた甲斐もない。心からこう思っているのですが、やっと還暦を越えたあたりから、遅まきながら「死」の問題を解決するには、「永遠の生命」という方向ではなく「裏道」をとって、この世は、そして私も「無」であると自覚することによる解決が一番だという確信に至りました。

加計学園問題でも、官僚たちは「知らぬ存ぜぬ」

そして、その方向に僅(わず)かな光は見え始めているのですが、このところ世の中の景色が相当面白いので、ついついそちらにも目が行ってしまいます。2度ほど森友学園問題をテーマにして、それにまともにカントの「道徳論」をぶつけてみましたが、もういいだろうと思っていたら、まさに5月25日のニュースで、今度は驚くほどよく似た加計学園問題が佳境に入ってきた。前文科省事務次官の前川氏が記者会見をして「官邸の口利きを記録した文書があった」とはっきり語ったのですが、それに対して、官房長官も文科大臣も文科省の官僚たちも「知らぬ存ぜぬ」と逃げ続けるという具合で、あたかも配役だけ変わった同じドラマを見ているかのような錯覚に陥ります。

追及されている官僚たちは、「またか」と思わざるをえない下手な弛緩した演技を繰り返しているだけなのに、森友学園前理事長の籠池さんも、前文科省事務次官の前川さんも、いわば討ち死に覚悟の背水の陣、まさに窮鼠(きゅうそ)猫を嚙(か)むという姿勢ですから、(官庁の文書もみ消しを追及する点に限っては)とても真摯で誠実に見え、感動的にさえ見える(私の主観的感想ですが)。ああ、これが江戸時代だったら、完全に闇討ちに遭うだろうなあと思わせられ、それを承知で堂々と告発しているからなのでしょうか?

そこには、確かに濃厚に復讐の影がありますが、それでも、もはや私利私欲を離れた地点で、相手とともに地獄に堕ちる覚悟で、不正を暴きたいという姿勢が見られる。長く生きてきて、ロッキード事件初め、真実と法的正当性とのギャップ(すなわち、ウソであることは明白なのに、不法ではないゆえに逃げ切るゲーム)は飽きるほど見せつけられてきたので、こういう真実ゲームには、その動機がいかに不純なものであれ、感動してしまいます。

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