本能寺の変、「本当の裏切り者」は誰なのか 教科書が教えない「明智光秀」以外の真犯人
最も無防備な瞬間を狙われた信長
天正10年(1582年)3月、信長は甲斐(現在の山梨県)へ侵攻し、長年の宿敵だった武田氏を滅ぼしました。
天下統一の手応えをつかみ、意気揚々と安土に帰還した信長でしたが、まもなく部下の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に任せていた中国攻めで毛利氏の大規模な反攻が始まり、応援を要請されます。
信長はすぐさま同じ部下の明智光秀に出陣を命じ、自身もその準備にとりかかる中、京都へ向かいました。このとき、信長が連れていたのはわずかな手勢のみで、配下の諸将は皆、各地で奮戦中でした。
この間隙を突き、中国地方へ向かったはずの明智光秀が突如、反旗を翻したのです。光秀は6月2日の早朝、信長の宿所だった本能寺を襲撃、信長は焼け落ちる寺の中で自刃したとされています。
この「本能寺の変」は、誰もが知る歴史的大事件でありながら、「明智光秀の犯行動機」がまったく解明されておらず、真相はいまも謎に包まれたままです。
そこで近年、注目を集めているのが、事件の背後で何者かが明智光秀を操り、信長の暗殺を実行させたという「黒幕の存在」説です。
今回は「本能寺の変」をテーマに、事件解明のカギを握る「黒幕」について、諸説ある中から代表的なものを解説、「真の黒幕」を探りたいと思います。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら