村上春樹「騎士団長殺し」は期待通りの傑作だ 「文芸のプロ」は、話題の新作をどう読んだか

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物語の終盤で起こる「決定的な違い」は、「子ども」にまつわることです。

作家自身の実生活がそうであるように、春樹作品には「子どものいる夫婦はNG」という暗黙の前提がありました。

「ネタバレ」になるためあえて詳述はしませんが、最後のどんでん返しは、春樹ファンを驚かす「事件」と言ってもよいのではないでしょうか。

「再喪失」で終わらないのが、今回の物語

ところで、『騎士団長殺し』の主人公には、12歳にして心臓病で亡くなった妹・小径(こみち)がいました。

この少女の面影は、作品中、何度も反復的に描き出されます。主人公の成長は、夫婦関係のつまずきの根底にあったものが、亡くした妹との深い絆であったことに覚醒したことでした。淡いインセスト(近親相姦)幻想です。

深い絆で結ばれた兄弟姉妹との悲劇的な別れを経験した人は、一般に異性との関係に何らかの支障が現れるものです。

彼ないしは彼女の無意識が、根強い幻想の顕(あらわ)れ=再生を強く相手に求めてしまうからです。心理学の専門用語で、それは「代理表象」と呼ばれます。「失われたものの代わり」ということです。

主人公の夫婦生活出直しのキーポイントは、妻を死んだ妹の代理として見ていた自分の無意識に気づいたことです。

その覚醒をうながしたのは、絵から抜け出たような、「騎士団長」の形象(=イデアの顕れ)を見た秋川まりえという13歳の少女です。彼女こそ死んだ主人公の妹の物語的な生まれ変わりだったのです。

そこで初めて、主人公はかつてのパートナー・柚(ゆず)を、「他者」なる女性として、再発見することができたのでした。結婚生活のやり直しにより、ようやく彼女は死んだ主人公の妹の「代理表象」という衣を、脱ぎ捨てることができたのです。

作家はこれまで、作中で別れた男女を、再度結びつけるなどということをしませんでした。その意味でも、今回の新作に68歳になった作家の進化を確かめることができます。

主人公は生活のための肖像画家から、一時的に妻と別れて暮らす間に、より芸術的な新世界に踏み込みかけますが、彼女とやり直すことで再び一介の肖像画家に戻ります。しかしそれは、ただの逆戻りなどではない、「何ものかの始まり」を予感させるものでした。

かくして『騎士団長殺し』は、<喪失―探索―発見―再喪失>という、従来の物語パターンを更新する、この作家にとっての新境地を切り開く作品となったのです。

高澤 秀次 文芸評論家

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たかざわ しゅうじ / Shuji Takazawa

1952年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒、評論家。民俗、芸能史から文学、思想史まで幅広いジャンルに意欲的に取り組み、特に作家や思想家の評伝を書かせては鋭い切れ味を発揮する。

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