英語が話せないと、「真の日本人」になれない 一人娘をインターナショナルスクールに入れた理由

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インターとの出会い

実は、娘がインターに入ったのは、単なるコネだ。「これからは国際化の時代。子供を国際人にしたい」だけでは、インターは入学させてくれない。

実際、娘が3歳になったとき、私の頭には、インターという選択肢はなかった。国際人にしたい、英語を話させたいとは思っていたが、それは漠然とである。

当時、私は週刊誌の『女性自身』の編集部で編集者をしており、締め切りが終われば麻雀、競馬などという生活をしていたから、娘の幼稚園をどこにしようかなどということは、すべて妻任せだった。たぶん、近所のどこかにある幼稚園に入ればいいだろうとしか考えていなかった。

そんなとき、 私の従姉がやってきて、こう言った。

「奈保ちゃん、これからどうするの? 来年は幼稚園でしょ。何か当てがあるの?」

私も妻もまだそんな話をするのは早いと思っていたが、従姉は続けてこう言った。

「ないなら、セントのキンダーに入れたら。私が頼んでみるから」

この年、1987年の6月、従姉の一人息子は、セントジョセフのハイスクールを卒業して、9月からアメリカのブラウン大学への進学が決まっていた。

「セントはいい学校よ。日本の幼稚園に入れるなら、セントのキンダーのほうが絶対いいから。私が頼めば大丈夫だと思うわ」

セントジョセフの校門。2000年に廃校となった

8月の初め、妻は娘を連れてセントに面接を受けに行った。このとき、面接をしてくれたのは、当時、学長補佐をしていたジェフリー・ミラー氏で、彼は日本語がペラペラだった。

私は、てっきり英語の面接だと思い心配したが、帰ってきた妻が「全部日本語だった」と言うので、何だそんなものなのかと思った。面接から数日で、娘の入学が決まり、9月から来てくださいというので、娘は普通の日本人の子供の年齢より早く、幼稚園に通うことになった。

「パパが生きていたら大反対したでしょうね。日本人なのに、何だって」と、私の母はインターをよく知っている横浜の人間にもかかわらず、そんなことを言った。

以上が娘のインター入学の実際の経緯だ。だから、私は「なぜインターに入れたのですか?」という質問に「国際人にするため」という答え方が反感を買うとわかったときから、「親戚もインターだったので」と答えるようになった。

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