(第15回)防御の時代・その1

山崎光夫

 突然、電車のドア付近のほうから男女の言い争う声がきこえてきた。
 四十代とおぼしき女が、
 「触ったでしょ。何するの」
と声高に叫んでいる。
 これも四十代でサラリーマンとおぼしき男が、
 「何をいってる」
と反論しているものの、女の剣幕に男は明らかに戸惑いの表情だった。
 このところ電車、特に混み合った電車に乗らなくなった。久しぶりに都心に出ての帰りの混雑した電車の中でこの一幕に出合った。車内は混んでいるが、シ−ンと静まりかえり、事の成り行きを窺っている。
 「触ったでしょ。とぼけないで」
と女の剣幕はおさまらない。サラリーマン男性を痴漢呼ばわりしているのだ。

 すると、声高女のそばにいた別の初老の男性が、
 「この人は何もしていない。あなたのいい方がおかしい」
と女を注意した。
 女はさらに逆上し、
 「痴漢に味方するの? 触ったのよ」
と声を張り上げた。
 初老の男性は、
 「それでは一緒に警察に行きましょう」
と冷静に対応した。
 これに呼応するように、付近にいた別の男女が、私も一緒に行きますと言った。
 次の駅に着くと、声高女とともに三人ほどが降りて行った。
 明らかに、声高女の理不尽が証明されそうな雲行きだった。初老の男性が助け船を出したからいいものを、そのまま女の剣幕に押されていたら痴漢犯人に仕立てあげられてしまっただろう。

 最近、医科大学の教授が痴漢と間違われて警察に突き出されて一時、失職した事件もあった。冤罪が認められたからよかったが、そのまま推移したら人生台無しである。
 痴漢の被害に遭う女性も多いが、一方でクレーマー女の餌食になる男性もいる。
 わたしはこの電車内の体験を数日後、友人たちとの集まりで話したところ、人ごとではないと意見は一致した。
 会社の顧問をしている友人は毎日満員電車で通勤している。
 「女のスカートが短かすぎる。それに短パンやTシャツで露出も過ぎる。それで触った触らないはないものだ」
と車内の危険を指摘した。

 痴漢と間違えられないために、あらかじめ防御する必要があるという。
 「セクシャルハラスメントもそうだが、相手につけ込まれないために防御手段を講じる必要がある。うるさい女の近くでは猥談はご法度だ。嫌な時代になってきた」
 痴漢といわれないために女の近くでは両手を挙げて下半身に置かないようにするのがよいという。これを“バンザイ吊り革”と呼ぶらしい。
 「ところが、満員電車ではバンザイ吊り革ができない」
という。混んだ電車ではみんなが吊り革をつかむので、一人で二本の吊り革は独占できないのだ。
 「女性専用車両があるのだから、男性専用車両を作るのが、とりあえずの得策だ」
と一同、しぶしぶ納得した。
 すると、
 「とりあえずと言うなら、こういう方法がある」
と弁護士をしている友人が立ち上がった。両手にカバンをさげている。
 「これなら手出しはできない」
 納得!
山崎光夫(やまざき・みつお)
昭和22年福井市生まれ。
早稲田大学卒業。放送作家、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。
主な著書として、『ジェンナーの遺言』『日本アレルギー倶楽部』『精神外科医』『ヒポクラテスの暗号』『菌株(ペニシリン)はよみがえる』『メディカル人事室』『東京検死官 』『逆転検死官』『サムライの国』『風雲の人 小説・大隈重信青春譜』『北里柴三郎 雷と呼ばれた男 』など多数。
エッセイ・ノンフィクションに『元気の達人』『病院が信じられなくなったとき読む本』『赤本の世界 民間療法のバイブル 』『日本の名薬 』『老いてますます楽し 貝原益軒の極意 』ほかがある。平成10年『藪の中の家--芥川自死の謎を解く 』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている。
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