どちらが正しい/間違っているという話ではなく、単純に「同じ世界を異なる視点で見ている」ということでしかない。若者側の高い解像度は、あくまで「自己ブランディングに成功した一部のプレイヤー」に向けられたものだ。個人のキャラクターや人間ドラマに対する解像度が高いからこそ、構造的搾取や「人を沼らせる仕組み」に対する解像度が逆に下がってしまう、という歪みが起こりうる。
社会に蔓延する自己搾取と他者への不寛容
従来、異性からの「欲望・消費の対象」であったキャバ嬢やホストは、SNSの普及によって同性の若者がフォロワーの主流となった。彼ら・彼女らが発信するメイク術、美容整形体験、ハイブランドの着こなし、人間関係の処世術がコンテンツ化されたことで、夜職は「圧倒的努力で美と財を成したファッションリーダー」へと再構築された。
これは、既成の価値観における「普通の努力」が報われづらくなった日本において、「自分自身をいかに魅力的なコンテンツにするか」を模索する者たちのサバイバル(夜職のカジュアル化)と、それに道徳的な不安を感じて、引きずり下ろそうとする者たちの罵声(善意のバックラッシュ)という、壮絶な「承認をめぐる闘争」なのだ。
「インフルエンサーになりたい」という子どもや若者たちが典型だが、社会的なつながりがやせ細り、自己の商品化によってでしか自分の存在価値を測れなくなる傾向が加速すると、人々からの承認を得るために自分自身の感情すら追い込んで精神を病んでしまう危険性がある。
この現象は、哲学者のビョンチョル・ハンが『疲労社会』(横山陸訳、花伝社)などで提起した「能力社会における自己搾取(Self-exploitation)」の理論そのものである。ハンは、現代社会が「〜すべき/してはならない」という禁止や強制によって支配される「規律社会」から、「〜できる(Yes, we can)」という主体性や積極性の過剰によって駆動される「能力社会」へ移行したと論じた。
これを夜職のカジュアル化に当てはめると、その帰結が鮮明になる。現代の夜職のインフルエンサー化は、「自分でセルフブランディングし、努力で成果を出す自由な自己実現」として示されるが、「他者から強制される搾取」よりも「自ら進んで行う自己搾取」の方が、「自分は自由である」という錯覚を伴うぶん、際限のない搾取に陥ってしまう。
このような破局は、「推し活化」によるキラキラした表層の成功物語と親近感という感情の前には霞んでしまうことだろう。けれども、彼ら・彼女らを好意的に解釈しようとする背景には、「セルフブランディングしなければ生き残れない」という現代特有のサバイバリズム(生存主義)の浸透があることを忘れてはいけない。
わたしたちが本当に問うべきは、彼らの是非などよりも、なぜ社会はここまで極端なまでの自己搾取の蔓延と、他者への不寛容を許すほどに荒廃してしまっているのか、ということなのではないだろうか。



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