9~10月ごろ、大雨になって水位が上がると下りアユやウナギ、山太郎ガニ、エビなどが水槽のスクリーンに引っかかりたくさん採れたのだという。発電所の非番の人もわざわざやってきて、魚捕りをしたそうだ。社宅の至る所ではウナギのかば焼きの匂いがしていたという。下りウナギは大人の腕くらいの大きなものもいたのだとか。
「前夜勤の人は、早く24時の交替がこないかと、首を長くして待っていました。暇を見ては水槽にいる人影を、よく見たものです」という証言も残っている。秋の実りを皆が楽しみにソワソワしていた様子が伺える。
また、前夜勤はそのまま泊まり込みをすることもあり、米と味噌を持ってきて、川でエビを捕って朝のおかずにしていたそうだ。
しかし、一方でヘッドタンクの清掃作業は危険も伴い、落ちて流されて亡くなった方もいたという。
集落がダムの底へ沈む
鶴田ダムの建設計画が決まったのは1945年。「1年に3回ぐらいずつ水害がある」と言われており、度重なる河川の氾濫が起きていた。その後10年にわたる調査を経て、1955年にはダムの規模や型式、建設費が決定された。
水没する前に、下ノ木場集落は標高の高い位置へ移転。そこへ移った住民もいたが、そのまま別の地域へ引っ越した人も多かったようだ。
「結びつきの強い地域で、大きな家族のように生活していた。住み慣れた場所を離れるのには抵抗があった」との証言も残っている。
発電所という大規模産業を中心に、仕事と暮らしが地続きになった共同体だった。元からの住民と発電所関係者たちも同じ公民会(町内会や自治会のような、地域の共同組織)に属しており、近所づきあいがあり、ひとつの、そこで完結する小さな経済圏が形成されていた。


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