第3に責任の所在である。子どもを受け入れる以上、事故やトラブルはゼロにはならない。問題は、起きたときに誰が責任を負うのかである。教育委員会なのか、学校なのか、地域団体なのか、委託事業者なのか、ボランティア個人なのか。
ここがあいまいなままでは、最終的には学校が矢面に立たされる可能性が高い。学校で起きたことは、学校の責任だと見なされやすい。たとえ教員が直接関与していなくても、保護者や地域から見れば「学校で起きたこと」になる。
だからこそ、学校施設を使う事業では、責任の線引きを事前に明確にしておく必要がある。
「子どものため」を善意に依存させてはならない
子どもの居場所づくりに必要なのは、「子どもを支えるための社会的コストを、誰がどう引き受けるのか」という議論である。子どもを守るには、お金がかかる。人手がかかる。責任が生じる。この当たり前をあいまいにしたまま、きれいな言葉だけで制度を動かしてはならない。
「子どものため」という言葉は強い。誰も反対しにくい。だからこそ、その言葉が使われるときには注意が必要である。
子どものために、学校を開ける。子どものために、地域で支える。子どものために、教員の負担にならないようにする。どれも正しいように聞こえる。しかし、本当に問うべきはその先である。そのための予算はあるのか、人員はいるのか、責任体制は決まっているのか。
この問いに答えないまま進めるなら、結局はまた、学校現場と地域の善意に依存することになる。
学校を開放すること自体が悪いのではない。問題は、学校を開放すれば何とかなる、という発想である。学校も教員も万能ではない。地域の善意も無限ではない。学童保育も、今のままで無限に子どもを受け入れられるわけではない。
子どもの居場所を本気で作るなら、学校を便利な受け皿として使うのではなく、予算、人員、責任を伴った社会的な仕組みとして設計する必要がある。学校開放は、最後の補完策でよい。
最初にやるべきは、すでに子どもの放課後と長期休業を支えている学童保育を強くすることである。学童保育で働く人の処遇を改善する。保護者負担を下げる。待機児童を減らす。昼食支援を整える。支援が必要な家庭へ確実に届く仕組みを作る。
そのうえで、なお足りない部分を、公民館、図書館、児童館、スポーツ施設、文化施設、そして学校施設も含めて補完する。それが本来の順番ではないか。
「子どもの居場所づくり」は、学校へのお願いで済ませてよい問題ではない。社会全体が、そのコストと責任を正式に引き受けるべき問題である。



