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東京大空襲で甚大な被害→整備されず密集化…北区にある「東京メトロで"最も乗降人員の少ない駅"」の周囲に広がる光景

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東京メトロで最も乗降人員が少ない駅のある街とは?(写真:筆者撮影)
  • 坪川 うた ショッピングセンター研究家・ライター
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商店街の周り、すなわち本郷通りの南側には、戸建てや小規模な集合住宅が密集した住宅地が広がる。

西ケ原の住宅街。狭い道も散見される(写真:筆者撮影)

つまり西ケ原の本郷通り北側は公共施設や公園が大部分を占め、南側は商店街のほか密集した住宅地であり、タワマンや高層ビルはなく、閑静な街並みが保たれている。

鷹狩り場だった北と、密集市街地が形成された南

西ケ原の本郷通りの北と南は、どのような経緯で今の姿になったのだろうか。

街の歴史を探ると、古く先土器時代にまで遡る。西ケ原には先土器時代から、縄文、弥生、奈良・平安、中世、近世にいたる遺跡があり、古くから人が暮らしていたことが確認されている。

縄文時代の貝塚である西ヶ原貝塚(写真:筆者撮影)
「御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遺跡です」と書かれている(写真:筆者撮影)

江戸時代には本郷通り北側の飛鳥山公園から滝野川公園あたりにかけての高台に樹木が生い茂り、徳川家光が鷹狩りを行うための御殿(休憩所)を設けたことから、御殿山と呼ばれていた。飛鳥山は徳川吉宗が1720年(享保5)に桜を植えて庶民に開放し、上野・小金井と並ぶ桜の名所となり、江戸郊外の散策地として知られたという。

また江戸時代、本郷通りは将軍が日光へ向かう際に通る岩槻街道であった。起点の日本橋から二里目にあたる西ケ原一里塚が今日まで保全されている。

西ケ原一帯は農地だったが、明治時代から徐々に変化を遂げていく。明治中期になると軍事関係施設が進出し、海軍火薬庫がつくられた。1911(明治44)年には北西部に現在の都電荒川線が開通したことで市街化が進んだ。

さらに街が変わる契機となったのが、1923(大正12)年の関東大震災である。都市部から人口が流入し、急速に宅地化された。1945(昭和20)年の東京大空襲では甚大な被害を受け、その後計画的な都市基盤の整備がなされないままに市街化された。密集した市街地が広がっているのはこのためだ。

現在、西ケ原の中央あたりに位置する地下鉄南北線の西ケ原駅が開設されたのは遅く、1991(平成3)年のことであった。

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