転機が訪れたのは、どん底状態が続いていた20年3月。花畑さんは新聞社時代、同社主催の「国宝展」で、三木たかしさんの未発表曲をテーマ曲に使用するため、三木さんの妻と知り合った。それから友人を交えて、たまにお酒を飲む仲になっていた。
その日も居酒屋で、どん底まで落ちたエピソードを花畑さんが自虐的に話していると、思わぬ言葉をかけられた。
「三木の残した曲を、あなたにいろいろやってもらおうかしら」
恐れ多いし、音楽のことは素人だから、と笑って断った花畑さん。だが再度、より真剣な様子で依頼された。
当時、三木さんの楽曲の管理は主に音楽出版社に任せてあった。だがコロナ渦で、コンサートもカラオケもできず、三木さんの曲が使われる機会は減っており、このままでは印税が入ってこなくなってしまう。三木さんの妻にとっては、死活問題になってしまうのだ。
三木さんのような国民的作曲家であっても、音楽出版社は三木さんばかりプロモーションをするわけにはいかない。三木さんの妻はそこに不安を感じ、ほかに管理を託したいと考えていたのだった。
断るという選択肢はなかった
なぜ彼女は、自分に白羽の矢を立てたのか。考える前に、「ぜひやらせてください」と花畑さんは答えていた。当時の心境をこう明かす。
「僕は三木たかしさんを名前や曲以外よく知らなかったし、もちろん会ったことも話したこともありません。音楽業界のことは素人で、楽譜も読めない。それでも頼まれたとき、断るという選択肢はなかったですね。たまたまどん底だった時期に、ご縁があったから受けただけです」
こうして20年4月、三木たかしさんが残した5000曲もの管理を、花畑さんはたった1人で任されることになったのだった。
後編では、“音楽のド素人”だった花畑さんが、「レコード大賞受賞」という栄誉を手に入れるまでの道のりを辿ります。

