藤堂高虎といえば、その勇猛ぶりがよく知られている。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、巨漢の高虎が合戦で、藤吉郎(のちの豊臣秀吉)、小一郎(のちの豊臣秀長)、蜂須賀正勝の3人を相手にしてもひるむことなく、槍をぶんぶん振り回す様子が描かれた。
そんな高虎の暴れん坊ぶりは、父譲りだったらしい。江戸中期の藩政家である藤堂高文が編纂した『宗国史』には「初高虎趣北越、仕上杉、敷有戦功、虎高賜其諱虎字」とあるように、父の虎高は越後の上杉のもとで戦功を挙げて「虎」の字をもらい、高く評価されたという。
一方で、江戸時代後期に老中の松平定信の命で、幕府が各家に申告させた家譜『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)では「武田信虎につかへ軍功ありて諱の字をあたへられる」とあり、虎高は甲斐の武田信虎に仕えて、軍功によって「虎」の字が与えられたとしている。
虎高の足取りは判然としないが、帰郷後に浅井に仕えたのは確からしい。その子である高虎も父や兄の高則と同じく、近江の有力大名・浅井長政のもとで足軽として仕えることとなった。
家臣同士でいざこざを起こして逃亡
浅井氏としても、高虎には期待をかけたことだろう。3歳にして餅をしっかりと食べて、5~6歳頃には成人並みの食事をしていたというだけあって、高虎は筋骨隆々で身長も190センチあったと伝わる。兄の高則もほかの子に比べると背が高かったが、高虎はそんな兄をも上回る体躯を誇った。
そんな高虎の初陣は、元亀元(1570)年の「姉川の戦い」である。織田・徳川の連合軍と浅井・朝倉の連合軍が、姉川を挟んで激突。高虎は浅井・朝倉軍として戦に臨んだ。敗北を喫するものの、首級を挙げる武功を立てたというから、初陣とは思えない活躍ぶりといえよう。
さらに翌年の小谷城籠城戦でも奮戦し、長政から感状を受け取っている。この感状は、後に高虎が「転職活動」をするにあたっても、証明書として役立ったに違いない。
だが、それから2年後、高虎は浅井氏家臣である山下加助といさかいを起こし、刃傷事件を起こす。戦で築いた信用は台無しになってしまった。
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【想起される前田利家の逸話】
