その後、何とか挽回したい利家から「武功の立て方を教えてほしい」と聞かれると、可成は自ら実践してみせている。
斎藤軍の砦を攻略する際、味方たちが我先に山上に向かう中で、可成は利家と二人で、その場にとどまり、体力を温存した。
そして周囲がへばってくるタイミングで、一気に山上へと駆け上がっていく。二人は先に行った者たちをみな追い越して、まっ先に砦に着くことに成功した。
「やみくもに突っ込んでいくばかりが脳ではない」と武功の立て方を示しながら、砦の一番乗りは利家に譲ったばかりか、その後、利家の活躍ぶりを強調しながら、信長に報告まで行ったという。
信長から帰参を許された利家。可成への恩を生涯忘れなかったというのも、うなずける。
戦場で活躍するだけではなく、そうして家臣団のフォローまでしながら、信長をいつもそばで支えたのが、可成だった。
重要拠点である宇佐山城を任される
可成は永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」にも出陣。それから3年後に信長が本拠を小牧山城に移すと、美濃のなかでも大規模な金山城(兼山城、かねやまじょう)を与えられている。
永禄10(1567)年、信長が稲葉山城の攻略に乗り出すと、可成は前線の指揮官として、美濃制圧に貢献。
信長が足利義昭を擁して上洛したときも、可成はこれに従い、道中で起きた近江の六角との闘いでは、先陣を務めた。上洛後は奉行として残り、行政手腕を発揮。チームで京都と畿内の政務にあたった。
元亀元(1570)年の越前攻めにおいては、浅井長政の裏切りによって信長軍が挟み撃ちにされそうになると、可成は近江西部の領主・朽木元綱を説得し協力をとりつけて、退却ルートを確保した。
最後尾の「殿(しんがり)」として奮闘した秀吉の努力を無駄にせず、信長を無事に京都へ退却させることに成功している。
その後、信長は浅井・朝倉に対抗するため、近江国内の諸城に配下の諸将を配置する。可成には、堅牢な宇佐山城が与えられた。京都と近江を結ぶ交通の要衝だっただけに、可成のように信頼できる家臣に任せたかったのだろう。
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【わずかな手勢で抵抗するも討ち取られる】
