そのほか、4男の森長隆、5男の森長氏、6男の森忠政らも信長に重宝された。森一族との密接なつながりは、彼らの父・可成の代からのことだった。
次男・森長可の勇猛さは父譲りだったのだろう。森可成は槍の名手で、「槍の三左(三左衛門)」や「攻めの三左」と称された。どんな人生だったのか。
斎藤氏を見限って織田信長についた
森可成は大永3(1523)年、美濃守護・土岐家の家臣である森可行の子として、尾張の国に生まれた。
斎藤道三の台頭にともなって、可成は斎藤氏の下につくが、織田家で信長が家督を継ぐと、織田家へと移っている。
織田家で信長が 天文20(1551)年に家督を継ぐと、織田家へと移っている。 合戦でも早くから活躍していたようだ。
弘治2(1556)年、信長とその弟の信勝との間で、家督争いに端を発した「稲生の戦い」が勃発する。信勝に味方したのが、柴田勝家、林秀貞ら譜代重臣たちで、その兵力は1700人に及んだ。対して信長軍は700人である。そんな中、可成は数に劣る信長軍に味方して奮戦した。『信長公記』には、次のように書かれている。
「信長の周囲には、織田勝左衛門・織田信房・森可成、ほかに槍持ちの中間衆40人ほどがいた。 信房・可成両人が柴田勢の土田の大原を突き伏せ、もみ合って首を取ったところへ、双方から掛かり合い戦う」
可成らの奮闘ぶりが、若き信長にとって、どれだけ助けになったことだろうか。信長が怒号をあげると、思わず敵兵は立ち止まって、そのまま逃げ崩れたという。
可成がいち早く信長に運命を懸けたのは、まさにそんな鬼気迫るほどの勢いに魅了されたからに違いない。
血気盛んな信長のもとに集う者もまた、一癖も二癖もある者が少なくなかった。
前田利家もその一人で、「稲生の戦い」では信長側につき、矢が右目の下に突き刺さりながらも敵軍と戦った。その勇猛な戦いぶりが信長から高く評価されたのも束の間、数年後、利家は、信長に仕える拾阿弥(じゅうあみ)と揉めて、斬り殺すという事件を起こしてしまう。
かねて信長のお気に入りだった拾阿弥がワガママに振る舞っていたことに、利家が激怒して起きたトラブルだったといわれている。そうだとしても、あまりにも短慮である。信長は怒り心頭で、利家には出仕停止処分が下されてしまう。
このとき、実は利家はあやうく死罪にされるところだったが、森可成らがとりなして、その程度の処分で済んだという。
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【利家に出世の方法を伝授】
