その席に1人の「小坊主」が現れます。彼は木造の一族ということでした。その坊主は「尾張・美濃の軍勢(織田軍)に包囲されては、勝算はありません。城を枕にして討死するは免れぬことでしょう。何卒、親父様の一命をお助けくだされ。もし許されるならば、これより城に参り、親父様と面談の上、開城を勧めましょう」と切々と訴えるのでした。
話の内容から分かるように「小坊主」は、阿坂城に籠る木造兵庫介の息子だったのです。
住職を呼び寄せ、小坊主の素性を尋ねたところ、木造兵庫介の子であることは間違いないとのこと。そこで、息子を城に遣わし、兵庫介を説得させるのです。それでついに同城は開城したのでした。
秀吉が負傷した理由
『武功夜話』の北畠攻めの箇所には、秀吉が負傷したとの記述はありません。『信長公記』には、逆に木造兵庫介の息子の逸話などは記されていません。攻撃の際、秀吉が負傷したので一時は後退したものの、再び激しい攻撃を加えたので、同城の者たちは支え切れなくなり「降参」。その後、退散したとあるのです。
さて『勢州軍記』(戦国時代の伊勢国についてまとめた軍記物)という書物には、秀吉の負傷について詳しいことが載っています。
まず、同書によると、信長は最初から阿坂城を力攻めしようとしたわけではなく「和睦」を希望していました。
しかし、阿坂城(城主は大宮入道)はこれに応じず。よって、攻撃することになるのです。
同書にも先陣は「木下藤吉郎秀吉」だったとあります。秀吉軍の攻撃が始まり、城兵は防戦します。その時、城主・大宮入道の息子に大之丞という者がいたのですが、彼は「大力の弓の上手」でした。
大之丞は次々に弓を放ち、敵方を寄せ付けません。秀吉もまた大之丞の弓に当たり「左腿」に傷を負ったとあります。
しかし、秀吉軍の優勢に変化はなく、阿坂城は味方の裏切り(大宮家の家老である源五左衛門尉、同條助の2人が心変わりして火薬に水を注いだという)に遭い、ついに「降参開城」に至るのです。
次ページが続きます:
【信長がついに伊勢国を制圧】
