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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

秀吉が「左腿」を射抜かれた阿坂城の激戦 伊勢を狙う信長に尽くす、泥臭く体を張った"天下人"の原点

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武将
秀吉は敵方からの攻撃により負傷します(写真:俺の空 / PIXTA)
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その席に1人の「小坊主」が現れます。彼は木造の一族ということでした。その坊主は「尾張・美濃の軍勢(織田軍)に包囲されては、勝算はありません。城を枕にして討死するは免れぬことでしょう。何卒、親父様の一命をお助けくだされ。もし許されるならば、これより城に参り、親父様と面談の上、開城を勧めましょう」と切々と訴えるのでした。

話の内容から分かるように「小坊主」は、阿坂城に籠る木造兵庫介の息子だったのです。

住職を呼び寄せ、小坊主の素性を尋ねたところ、木造兵庫介の子であることは間違いないとのこと。そこで、息子を城に遣わし、兵庫介を説得させるのです。それでついに同城は開城したのでした。

秀吉が負傷した理由

『武功夜話』の北畠攻めの箇所には、秀吉が負傷したとの記述はありません。『信長公記』には、逆に木造兵庫介の息子の逸話などは記されていません。攻撃の際、秀吉が負傷したので一時は後退したものの、再び激しい攻撃を加えたので、同城の者たちは支え切れなくなり「降参」。その後、退散したとあるのです。

さて『勢州軍記』(戦国時代の伊勢国についてまとめた軍記物)という書物には、秀吉の負傷について詳しいことが載っています。

まず、同書によると、信長は最初から阿坂城を力攻めしようとしたわけではなく「和睦」を希望していました。

しかし、阿坂城(城主は大宮入道)はこれに応じず。よって、攻撃することになるのです。

同書にも先陣は「木下藤吉郎秀吉」だったとあります。秀吉軍の攻撃が始まり、城兵は防戦します。その時、城主・大宮入道の息子に大之丞という者がいたのですが、彼は「大力の弓の上手」でした。

大之丞は次々に弓を放ち、敵方を寄せ付けません。秀吉もまた大之丞の弓に当たり「左腿」に傷を負ったとあります。

しかし、秀吉軍の優勢に変化はなく、阿坂城は味方の裏切り(大宮家の家老である源五左衛門尉、同條助の2人が心変わりして火薬に水を注いだという)に遭い、ついに「降参開城」に至るのです。

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【信長がついに伊勢国を制圧】

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