「悪いマナー」は、ポピュリストが「真正性」を演出するに当たって、粗野な言葉遣い、下品なジョークといった礼儀正しい政治的言語を拒否することや、「自分はあなたと同じ普通の人間だ」というメッセージの身体的表現のことを指している。
つまり、政治家が素顔をさらけ出すことによって、広い支持を得るという効果を期待した周到なパフォーマンスのことである。ただし、これはモフィットが「綱渡り」と表現しているように微妙なバランスの上に成り立っている。
山岸氏のポストに顕著な「お金がない、苦しい」といった弱さの自己開示は、「告白の真正性」といえるものだが、これは有能さとセットでない限り、単なる「エリートの自己憐憫」として処理されてしまう。
要するに、政治的エリート層が自身の金銭難を訴える行為は、庶民から見れば、元特権階級による敗者復活への未練であり、「自立できないエリートの甘え」という最悪の印象を与えるのだ。
ポピュリズムにおける「真正なリーダー」とは、「国民と同じ苦しみを背負い、国民のために戦う強者」である。有権者が求めているのは、親近感を抱かせるこのような人物が強い意思決定の下、技術的な解決を推し進めることだ。
エリートの泣き言は「特権への執着」
山岸氏のポストは、弱さだけを提示して、解決能力を提示できなかったため、真正性のスイッチが明らかに負の方向に作動した。エリートの泣き言は「特権への執着」にしか見えなくなったのである。モフィットの「真正性」の致命的な解釈ミスといえるだろう。
一方、高市首相は、「真正性」の面ではうまく乗り切っている。カタログギフト騒動のように、既得権益や批判勢力(メディアや野党)に対して、「昭和の中小企業のおやじ社長みたいなところがある」「飯会(食事会)が苦手な女」などと開き直る態度は、支持層には「ごまかさずに本音で話す政治家」「スキャンダルに持ち込もうとする敵対勢力に屈しないリーダー」と映ったのだ。
次に、もっと重要なことは、冒頭に申し上げたテクノ・ポピュリズムの視点からの中道勢力への風当たりの強まりである。チームみらいが推進する「プッシュ型行政」や「直接的な民意集約」は、「調整役としての中間者」の存在意義がテクノロジーによって薄まりかねない側面がある。



















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