政宗に家康…「佐賀の交差点」に武将の名が使われるワケとは? 身近なところに宿る歴史のストーリー

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伊達政宗陣跡交差点(佐賀県唐津市 筆者撮影)

先日、所用があって佐賀県の北部の国道204号線を走っていた時のこと。玄界灘沿いの唐津市鎮西町(ちんぜいちょう)で不思議な交差点名が書かれた標識があり、思わず目を留めた。

その名は「加藤清正陣跡東」。

加藤清正といえば戦国武将の一人で、肥後熊本藩の藩主も務めた名君である。豊臣秀吉と柴田勝家が、信長亡き後の主権争いでぶつかった賤ヶ岳の戦いで、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして、武功を挙げた人物だ。

しかし、ここは熊本ではなく佐賀県である。その次の交差点には「前田利家陣跡」の標識があった。

前田利家は、言わずとしれた豊臣政権の五大老の一人で、加賀百万石の藩祖である。しかし、武将名の交差点はこれで終わりではなかった。

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名前の“連なり”から見えた背景

次が、地元唐津藩の初代藩主の名を冠した「寺沢広高陣跡」。さらに「伊達政宗陣跡」、そして最後に超ビッグネームの名前がつく「徳川家康別陣跡入口」と続いた。この二人は説明の必要もないだろう。

この連続する武将名の連なりを見て、その理由が推測できた。そう、この国道が走っているあたりの住所は、鎮西町名護屋(なごや)。秀吉が朝鮮出兵の前線基地とした、名護屋城跡がある場所である。

加藤清正陣跡東交差点(佐賀県唐津市 筆者撮影)

明の征服を目指した「文禄・慶長の役」では、主に西国の諸大名が集められ、ここ名護屋にそれぞれの大名が陣を敷いた。その跡地は今も史跡として残されており、交差点の名はその陣跡にちなんでつけられたものである。

それにしても、地名や「市民病院前」「県立美術館入口」といった施設名が一般的な交差点の名前に武将名が並ぶというのは、初見で接すると相当なインパクトである。

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