関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ 「裏切りの理由」「徳川秀忠遅刻の原因」も?
揺らぎ始めた「関ヶ原」の神話
慶長5(1600)年9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を舞台に繰り広げられた、徳川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍、合わせておよそ16万の軍勢が激突した「関ヶ原の戦い」は、豊臣秀吉没後の政治の主導権をめぐる「天下分け目の戦い」としてもよく知られています。
現代でも、この戦いは映画やドラマでたびたび再現され、三成打倒で東軍が結束した小山評定(おやまひょうじょう)、西軍必勝の鶴翼(かくよく)の布陣、家康の問(とい)鉄砲に裏切りを決断する小早川秀秋など、数々の名場面に彩られる、まさに「史上空前の大合戦」として描かれています。
さらに、戦いについての詳細な解説本も多数出版されており、古戦場となった関ヶ原は観光名所として歴史ファンが全国から訪れる人気ぶりです。しかし、実は近年の研究により、実際の戦いの様子は従来の認識とは異なることが次々と明らかになってきました。
今回は、最新研究により解明された、関ヶ原の戦いの実像について解説します。




















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