関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ 「裏切りの理由」「徳川秀忠遅刻の原因」も?

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私たちが知っている関ヶ原の戦いの、どんな部分が「史実ではない」と指摘されているのでしょうか。

エピソードの多くは後世の創作

【定説1】三成襲撃事件で、三成は家康の屋敷に逃げ込んだ

慶長4(1599)年閏3月3日、前田利家の死去にともない、三成は政権内で敵対していた加藤清正ら武断派の大名に襲われますが、同じく政敵であった家康の屋敷にあえて逃げ込み、難を逃れたとされています。

しかし、これは18世紀の兵学者、大道寺友山による『岩淵夜話』の創作エピソードが、後に参謀本部編『日本戦史・関原役』などの書物で取り上げられた結果、史実と誤解されて定着したものです。

このとき、三成は伏見城(京都市伏見区)から出られなくなったというのが実情で、実際に三成が逃げたのは、伏見城の中にある自らの邸宅(治部少丸)でした。

【定説2】関ヶ原の戦いは「三成による謀反」だった

秀吉の死後、政治の主導権をめぐり家康に失脚させられた三成は、その復権を企み家康を亡き者にしようと豊臣恩顧の大名を召集し、ついに関ヶ原で決戦が行われたというストーリーが一般的に知られています。

このこと自体は事実ですが、それゆえにこの戦いは「三成による謀反」であり、「家康vs三成の一騎討ち」の図式であるというのは、近年の研究とは認識が異なります。当時、家康に敵対したのは三大老(毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝)四奉行(石田三成、前田玄以、増田長盛、長束正家)でした。正義の側を示す「公儀(こうぎ)」は、三成の側にあったと指摘されています。

ちなみに、このときの両軍を東軍・西軍と呼ぶようになったのは、戦いが終わって約100年が過ぎてからです。

【定説3】家康が小山で開いた軍議(小山評定)で東軍は結束した

慶長5(1600)年7月25日、家康は会津の上杉討伐に同行した諸大名を下野国(栃木県)小山に召集して三成の謀反を報じ、これを制圧すべく上杉攻めを中止して西上を提案します。すると、豊臣恩顧の大名、福島正則(尾張国清洲)が率先して家康への恭順を表明し、続いて山内一豊(遠江国掛川)も居城を提供すると申し出るなど、東軍諸将が三成打倒を掲げ一つに結束したというのは、物語前半のハイライトシーンです。

しかし、この評定が開かれた証拠を示す家康や各大名の書状は「一通も」見つかっていません。福島正則にいたってはすでに東海道を西上の途にあり、小山には不在だったことがわかっています。山内一豊の申し出云々も当時の記録にはなく、これらのエピソードは後世の編纂物でしか確認できません。

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