しかし、こうした専門家もまた(いかに一流であっても)厳密な意味では哲学者ではなく、哲学研究者という名の哲学・学者です。ちょうどモーツァルト研究者が、作曲家ではなくて、音楽・学者であるように。
では、ホンモノの哲学者とは何か? それは、真理の基準のない海を泳いで「おもしろい」と感ずるのではなく、むしろ「うんざり」し、自分で新しい基準を打ち立てようとする人なのです。自分の感受性と信念に合った真理を「創造する」ことに勤しむ人であって、少なくとも「創造しよう」と努力する人です。カントは、哲学者を「理性の立法者」と呼び、キルケゴールは「主観性が真理である」と言いましたが、まさにこのことを意味しています。
しかし、もちろん、いろいろ渉猟して「誰も言っていないことを言ってやろう」というヤワな(そして不純な)動機をもってしては、到底この作業が続くわけではなく、むしろ、生まれつき「ある」とか「よい」とか「いま」とか「私」という言葉に、身体全体で違和感を持っていて、しかもそれをずっと抱きかかえながら少年期、青年期を過ごした人が、あるとき、まさにプラトンの「洞窟の比喩」のように、洞窟の壁に移る影からはっと頭を巡らせて光の当たる方向に吸い寄せられていくとき、ホンモノの哲学者が誕生するのです。
「死」は言葉なのだ!
こういう人は、基準のない海を泳ぎながら、できれば、どこかの港に漂着したいのですが、どうしてもその港が見つからない。そして、残酷なことに、どこかに自分の漂着する港を自分で「創造する」しかないことを予感するに至る。
以上の観点から見返せば、ホンモノの哲学者は哲学における「真理」とは、それほど込み入ったものではなく、「ある」や「よい」や「いま」や「私」などの、恐ろしく普遍的な言葉に対するこれまでの意味すべてに根本的疑問を覚え、自分で納得のゆく新しい意味を与えたいと願う人であり、しかもこれらの言葉に、自分が最適の意味を付与することができると予感している人、それを通じて世界の見え方を一変できると信じている人、人生においてそれ以上に有意義な営みはないと信じている人、それをするまでは死ねないと確信している人と言えましょう。
(好みはともかく)デカルトやカントやニーチェのような天才的哲学者には、みなこうした必死の努力が感じられる。しかも、(どうも一流の宗教家とは異なり)誰一人として仕事をやり遂げて死んだという感じがしない。道半ばにして斃れたという感が深いのです。そして、それを予感しつつ、それでも他の生き方を選べないと自覚する人は哲学をするしかない。
私の場合は、小学生低学年のころから「死」に怯え、ほとんど狂気の淵まで至りながら、大学に入ったとき、ふと「死は言葉なのだ!」という身体の底にまで到達する衝撃に撃たれた。そして、「死」とは言葉なのだから、自分でその意味を最も適切なものに変えられるはずだ、という直観に導かれてここまでやってきました。
このすべてがまったくの錯覚だとしても、そしてたとえすべての他人が、私が付与した「死」の意味を承認してくれなくても、これ以外の有意味な生き方はないのですから、これでいいのではないか、と思っています。
おわかりでしょうか? 私は「これ」こそが「哲学」であり「真理の追究」だと思っているのですが、このことを「哲学塾」の門を叩く人すべてに「教える」のは、たいそう難しいことなのです。
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