沖縄の異端児がロボティクス革命に挑む 搭乗型可変ロボットスーツで世界を変える!

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車の整備士を務めるフィリピン人の父親と、日本人とフィリピン人のハーフの母親を持つ端正な顔をした男は、沖縄で生まれ育った。

白久の原点は「ロボコン(アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト)」にある。

ロボコン出場で味わった屈辱

初めて挑んだ高専ロボコン1回戦で味わった屈辱的な光景をいまもよく憶えていると語る

幼い頃からミニ四駆やプラモデルのゾイドで遊び、小学4年生の時にはすでに電子工作をするなど機械をいじりが好きだった少年は、中学生の時にテレビで「ロボコン」を観て、沖縄工業高等専門学校(通称、沖縄高専)への進学を決めた。

ロボコン部に入部した白久は、40名の部員のひとりとして、全国の高専57校の頂点を決める高専ロボコン全国大会への出場を目指す。1年目、白久は屈辱を味わった。

「大会はトーナメント制で、対戦相手はくじで決めるんですけど、沖縄高専と当たるとわかった学校の部員が、ガッツポーズをしたんです。あの光景は、今でもよく憶えてますよ。沖縄高専は歴史が浅くて僕が2期生。高専ロボコンの歴史は20年ぐらいあって、ほかの高専はノウハウがたまっていたので、最初の頃はものすごく技術力に差があったんです」

迎えた1回戦、競技はロボットでボールを運ぶタイムを競うものだったが、白久のチームのロボットは少し動いた後に停止。スタートのゾーンからも出られず、白久は「恥ずかしかった」と当時を振り返る。

それから3年後、上級生もいるなかでチーム全体を指揮するリーダーとなって挑んだ4回目の大会で、見事に雪辱を果たす。地区大会で圧勝すると、全国大会でも他校の追随を許さず、念願の初優勝。4年前、弱小だった沖縄高専と対戦が決まった時にガッツポーズをした学校の生徒は、さぞ驚いたことだろう。

思い出作りが世界初のロボット製作

阿嘉のアイデアをもとに製造したスケルトニクス1号機(写真提供:スケルトニクス)

この大会後、白久は意外な決断をした。

ロボコン部を退部し、コンビニでアルバイトを始めたのだ。ロボットの場合、モーターやエンジンなど動力源がオーバーヒートしないように冷却機能があるが、白久にも全国優勝を目指してフル回転で加熱した頭脳を冷やす期間が必要だったのかもしれない。

高専は5年制で、希望者はさらに2年間、学校でより高度な技術を学ぶことができる。その制度で学校に残った白久が再始動したのは、6年生になった年の夏。同じく学校に残っていたロボコン部の同級生で、大会で優勝した際にロボットの設計を担当した阿嘉からの誘いがきっかけだった。

「阿嘉が首都大学東京に行くことになったので、最後の年に思い出作りをしようということで、もうひとりの友達と3人でスケルトニクスを作り始めました」

当時、スケルトニクスのようなロボットスーツは日本、そして世界でも発表されておらず、白久は「できると思っていなかった」そうだ。しかし製作に没頭した3人は、構想からわずか4カ月で全長2.6メートル、総重量40キロのスケルトニクスを完成させた。

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