「研究者と哲学者」がタッグを組んだ理由

――お二人は15年来の旧知の仲だそうですが、なぜScTNを設立されたのでしょうか。

山口裕也氏(以下、山口) 私たちは、学びや教育のあり方を根本から考え直そうという取り組みを「学びの構造転換」と呼んでいます。学習指導要領の改訂やGIGAスクール構想、中央教育審議会答申が示した「令和の日本型学校教育」などがまさにそうで、とくにここ5年ほどは日本の学びの構造転換が大きく展開してきたと感じます。

山口裕也(やまぐち・ゆうや)
一般社団法人School Transformation Networking代表理事
独立研究者。主な研究領域は心理学、教育学、哲学。博士課程在学中の2005年から研究員として東京・杉並区教育委員会事務局杉並区立済美教育センターに在籍、同センター調査研究室長や東京学芸大学非常勤講師、杉並区教育委員会主任研究員を経て、現在は独立研究者として活動。著書に『教育は変えられる』(講談社現代新書)、共著に『よい教育とは何か』(北大路書房)など
(写真:山口氏提供)

しかし、その状況に期待が高まる一方、私も苫野さんも不安感が拭えなかったんです。例えば、個別の学びと協働的な学びが一体ではなくバラバラに行われているなど、学びや教育はどうあればよいのかという“そもそもの部分”が十分に踏まえられていない実践が少なくありません。ICTやデータの利活用も同様です。

私たちは、「そもそも公教育は何のためにあるのか(=公教育の本質)」「公教育はどうあれば『よい』といえるのか(=正当性の原理)」といった共通の土台を根底に敷いたうえで議論や実践を積み重ねることが、学びの構造転換には必須だと考えています。私は18年ほど教育行政で学校や地域と関わる中、土台の共有の大切さを痛感してきました。ここに対する懸念が、法人設立の大きな理由の1つです。

苫野一徳氏(以下、苫野) 公教育が始まって以来、日本の教育構想や教育改革は、公教育の本質と正当性の原理という“底”が抜け落ちた状態で議論がなされてきました。これまでも何度か、子ども主体の学びを目指す動きはありましたが、そもそもなぜそうした学びが必要なのか、教育は何のためにあるのかといった根本的な議論が欠けていた。つねに「何のため」という問いがおざなりにされてきたから、揺り戻しが繰り返されてきたんです。だから私はこの点を哲学でずっと論証し続け、公教育の本質は「自由の相互承認(※)」の実質化にあると発信してきました。

※ 自由に生きたいと願っている存在同士であることをお互いに認め合うこと

苫野一徳(とまの・いっとく)
一般社団法人School Transformation Networking理事
熊本大学大学院教育学研究科・教育学部准教授。哲学者、教育学者。教育とは何か、それはどうあれば「よい」と言いうるかという原理的テーマの探究を軸に、これからの教育のあり方を構想。公教育の本質は「自由の相互承認」の実質化にあるとし、具体的なあり方として「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」などを提唱。主な著書に『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『学問としての教育学』(日本評論社)など
(写真:苫野氏提供)

当法人も、公教育の本質に「自由」「自由の相互承認」、正当性の原理に「一般福祉」というキーワードを置いています。つまり、すべての子どもが自由に生きられる力を育むこと、すべての子どもが自由の相互承認の感度を育めること、すべての子どもの自由の実現に寄与するものであることが公教育の前提だと捉えています。実に当たり前の原理ですが、この3つのキーワードが土台として共有されているかどうかで、教育の議論や政策もまるで変わってきます。

――どのように議論や政策が変わりうるのでしょうか。

苫野 ここ10年以上、日本を立て直すには高度人材が必要だから、自分で問いを立てて考える教育が必要だという議論がなされています。しかし、高度人材の育成が土台に敷かれると、期待できない子の教育はそこそこにして、一部の優秀な子たちに集中投資をしようという話になりかねません。しかし、自由の相互承認やすべての子の自由を実現する教育が前提になっていれば、一部の子に集中投資する話にはならないわけです。

山口 国連障害者権利委員会から是正勧告があったインクルーシブ教育も、私たちが考える公教育の本質と正当性の原理に照らせば、統合教育の実現を積極的に考える議論になっていくはずです。

苫野 「異なる他者がお互いの自由を認め合う社会においては、多様な人たちがごちゃまぜになって学び合える場所が大事になる」と説得力を持って言えるようになりますからね。

山口 どのような考え方を土台に敷くかで、データの利活用も変わってきます。私が今懸念しているのが、ポリジェニックスコアという遺伝的な定量指標の扱いです。高度人材育成を根本の目的に置いてしまうと、学歴についてのポリジェニックスコアを序列化して上位層の子の早期選抜や集中投資をしようという教育制度になりかねない。実際、経済新自由主義の文脈の下、2000年台初頭から10年ほどは、小中校一貫教育についてそういった話が真剣に議論されていたので、懸念が拭えません。

一方、自由・自由の相互承認・一般福祉が共通目的になっていれば、すべての子の自由の実現を目指すので、ポリジェニックスコアは共生社会に向かうための活用になっていく。学歴だけでなくいろいろなポリジェニックスコアを並べ、それぞれの個性が補い合えるような教育を展開しようといった議論ができます。

苫野 近年、エビデンスに基づく教育政策(EBPM)の重要性が強調されています。それ自体はすごく大事なことですが、「そもそも何のために」があいまいだと、適切なエビデンスも収集できません。哲学原理が根底に敷かれていれば、具体的な教育構想の議論も、その構想にかなうエビデンスの取得や活用もぶれずに進めることができます。だから私たちは、「哲学原理とエビデンスに基づいた実践「Philosophical principles and Evidence Based Practice」(以下、P-EBP)を掲げており、これを広めたいと考えているのです。

授業改善や学校運営に活用できる「ScTN質問紙」の中身とは?

――法人設立と同時に、「ScTN質問紙」という、児童生徒が回答する形の調査質問紙をリリースされました。ScTNのホームページとMEXCBT(メクビット)で無料公開されていますが、狙いや内容をお聞かせください。

山口 どのような資質・能力の育成を目指し、どのような学習活動や教育環境が整っていれば、公教育の本質や正当性にかなう教育の状態だといえるのか、そのことを質問紙で具体化しました。主に、主体的・対話的で深い学びを中心とした「学校教育の経験」や、学びに向かう力と人間性の「成長」、「学校教育の成果の実感」を測定できます。多くの教育現場で使っていただき、この質問項目が有効かどうかも含めて、いろんな議論や実践を積み重ねられたらいいなと考えています。

ScTN質問紙で測定できる内容
(出所:ScTNのホームページ)

苫野 世の中には、根拠なく「これって大事だよね」と話し合いの場で出てきた質問項目を基に因子分析をして作ったような質問紙が多いですが、山口さんが作ったこの質問紙は、哲学原理を根拠としており、教育や心理学、統計学なども踏まえている。まさにP-EBPである点が大きな特徴となっています。

――どのような場面で活用できますか。

山口 先生方がご自身の授業を振り返るために行うほか、学校運営を目的に校長先生が自校で実施するケース、いじめ・不登校の未然防止を図るために教育委員会が所管する学校で実施するケースなど、さまざまな目的で使えます。例えば、授業改善に役立てたい先生方は、「学校教育の経験」に含まれる次のような質問項目が参考になります。

公教育の本質の1つが自由に生きる力を育むことならば、授業の中身も教員主体による一斉一律の授業ではなく、子どもが自己選択・自己決定をして学んでいくことが大事ですよね。また、自由の相互承認の感度を育むには、自身の得意を生かして苦手を補いながらみんなで学ぶことも重要です。そうしたことが質問項目に表現されています。

例えば、探究の学びの観点では「授業では、自分の興味や関心に基づいて、自分なりに問いや課題を立てて学んでいる」、個別の学びの観点では「授業では、学習の方法やペースを自分で選んだり決めたりしながら学んでいる」、協同の学びの観点では「授業では、自分が必要な時に、必要な仲間と協力しながら学んでいる」といった質問項目があります。

――各質問項目の内容がどれくらい実現できているか実態を把握でき、授業改善につなげられるのですね。

山口 はい。また、先生同士で質問項目を共有することで、「学びの構造転換のためにはこうした教育を目指せばいい」「この学年のこの単元はこういう授業をつくればいい」といった方向性を共通理解できるメリットも大きいです。

――NTTコミュニケーションズの学習eポータル「まなびポケット」の導入校では、「ScTN View」というサービスでScTN質問紙の分析結果が可視化できるそうですが、こうしたサービスが使えない教育現場が質問紙を活用するのは難しいのではないですか。

「ScTN View」の画面イメージ
(画像:NTTコミュニケーションズ提供)

山口 ご要望があれば、講演や研修の形で質問項目の読み解きや活用をサポートしています。また、近々まなびポケットのホームページ上で、『ScTN Viewハンドブック』という活用マニュアルが一般公開されます。まなびポケットを学習eポータルに選定していないユーザーでも、質問紙の構成やデータの使い方、対話のためのワークシートなどの部分で理解を深めていただけると思います。

「科学×哲学」に基づき議論できる「若手研究者の育成」も視野

――ScTN質問紙の利用実績を教えてください。

山口 4月のリリースから現在までに、56の自治体、450の学校が、MEXCBTを通じて利用しています。デジタル庁「令和5年度教育関連データのデータ連携の実現に向けた実証調査研究」の一環で鹿児島市の小中学校計2校で利用があるほか、全公立小・中学校で実施している自治体も。名古屋市では、ナゴヤスクールイノベーション事業向けに、ScTN質問紙と同趣旨の質問紙を共同作成し、実施しています。そのほか、フリースクールなどでも利用があると聞いています。

――現時点で何か成果や手応えはありますか。

山口 協同の学びの肯定率が高く出る一方、個別の学びの肯定率は低く出る学校が多いのですが、そういう学校の授業を見ると、教員が授業を主導していて個別の学びと協同の学びが分離していることが多いんです。でも、先生方が公教育の本質から議論していくと、個別の学びの肯定率が協同の学びの肯定率と一体的に向上したりする。授業改善に役立つ指標になっていると感じています。

――今後の取り組みについてお聞かせください。

山口 主に3つあります。1つ目は、自治体や学校の支援。ScTN質問紙を通して関わるほか、研究支援も力を入れています。今年度は、名古屋市教育委員会が採択された文部科学省「特定分野に特異な才能のある児童生徒への支援の推進事業」の実証研究に係る測定指標設定と効果検証業務を請け負っています。

2つ目は、EdTech系企業や大学などの研究機関と協働のためのネットワークを構築し、公教育の本質と正当性の原理にかなったサービスをつくること。例えば、自己選択や自己決定を子どもに委ねると、関心が似ている子同士が集まって協同の学びが行われがちです。そこで今、ScTN質問紙の結果とEdtech系企業のスタディーログのデータ連携を行い、異なる関心を持つ子同士を出会わせてあげられるようなグループ編成のレコメンド機能を開発しています。

苫野 3つ目は、若手研究者の育成とそのネットワークの形成。今、いろいろな学校が変わろうとしています。本来ならさまざまな研究者が学校に張り付いて支援すべきですが、現状は山口さんのように科学的理論の知識をお持ちで、かつ哲学原理をベースに精緻な議論ができる人がいないんですよね。こうした人をもっと増やして教育現場に本当に役立つ研究をできるようにし、教育学をもっと何段階もアップデートしたいと思っています。

(文:編集部 佐藤ちひろ、注記のない写真:山口氏・苫野氏提供)