冷静沈着な「大久保利通」意外にも子煩悩だった訳 8男1女の子だくさん、お茶目な振る舞いも

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大久保利通の像
子煩悩だった大久保利通(写真:chang/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第57回は維新三傑の2人である西郷隆盛と木戸孝允の最期、大久保の父親としての顔について解説する。
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<第56回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。薩長同盟を結ぶなど、武力による倒幕の準備を着々と進める大久保とその盟友の西郷隆盛に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷が下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。さらに「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得て、琉球を併合。「地租改正」などの大改革を進めていく。
一方、士族たちは大久保への不満を募らせ、西南戦争が勃発するも、その中心となった西郷隆盛は劣勢に立たされ、敗北する。

西南戦争で政府軍に檄をとばした木戸孝允

「倒れて止む」(斃止牟矣)、つまり、「死んでようやく止める」、そんな決意でなければ、本当の意味での太平の世は実現しない……と、西南戦争において明治政府軍に激をとばしたのは、木戸孝允である。

鹿児島だけが勝手に振る舞う状況を、最も問題視していたのが、木戸であった。熊本城を包囲する西郷軍との戦闘が激化すると、木戸は「背後の八代に援軍を送るべし」と主張。西郷軍を挟み撃ちにした。

だが、西郷軍が敗走し、政府に勝利が見えてきたころになると、木戸は病床に伏していた。体調は以前からよくなかった。明治8(1875)年の7月末から9月にかけても、30日あまり病に伏せた木戸。その後も下痢に悩まされていたが、ここに来て木戸の病はどんどん悪化していく。

次ページ木戸は何の病だったのか?
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