フランスでも、「行き過ぎた風刺」は論点に 表現の自由は、無制限の自由ではない

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――そんな意見をフランス人知識層から聞くのは珍しい。というのは、言論の権利は擁護し、かつ風刺画を肯定するように強制されているような印象を受けたからだ。

もしそういう印象を与えていたとすれば、私たちは事件の大きさに衝撃を受け、感情論が先に来ていたのかもしれない。誰かが亡くなった時にその人の作品の表現を批判したり、欠点を見つけるのは政治的に正しくないだろう。それよりはその人の良い点について話すだろうと思う。それが普通ではないか。

私たちはまだ感情の波の中にいる。まだ終わっていない。また殺害や残虐行為があるかもしれないという恐怖感がある。

権利は擁護したいが作品自体は受け入れがたいというジレンマは理解できる。自分も同じジレンマを抱えているからだ。

言論の自由の権利を擁護するが、同時に私たちは言論・表現行為において限度を設けるべきだと思っている。私たちは互いに社会の構成員としてともに生きなければならない現実がある。傷つけないようにしながら、共生を達成するべきだ。

パリ革命時の反体制スピリットを体現

――シャルリ・エブドは戦後のフランスのメディア史の中でどのような位置を占めるか。

独特の位置にあった。学生が主導した1968年のパリ革命時の反体制スピリットを体現していた。すべての権威を拒絶し、完全な自由を要求した。反体制の特別な時代背景があった。社会の自由化が進んでいた。シャルリ・エブドはあの時代の残滓だった。

あるフランスのジャーナリストがシャルリに、「1面の風刺画を変えるべきではないか」と進言したそうだ。しかし、シャルリ側はできない、と突っぱねた。もし変えれば自分たちのこれまでを否定することになるからだ。

ある意味では、シャルリは罠にはまったのだろう。これまでの編集方針を継続しなければならないという罠だ。同じことをやり続けないと、他の媒体と同じになってしまうと思ったのだろう。

――テロ事件発生後の最新号(14日発売)では、1面にイスラム教の予言者ムハンマドと思われる人物の漫画があり、頭上に「すべてが許される」と書かれてあった。これをどのように受け取ったか。

みんながその意味するところについて首をかしげている。描いた風刺画家に聞くしかないのだろう。私が思ったのは、おそらく「私たちは変わらない。ムハンマドを描きたかったら描く」ことを示したのではないか。ただ、いつもよりはソフトなバージョンだった。「すべてが許される」と言っているからだ。

――「私たちは変わらない」と主張することで、フランス社会に対立を作ることにはならないだろうか。

いま、「私はシャルリ」という人と「私はシャルリではない」という人がいる。誰もがあのような殺害を非難しているけれども。もしかして、ムハンマドを描くべきではなかったのではないか、描くのはムスリム(イスラム教徒)にとって侮辱になるから、と感じた人もいる。

しかし、マイノリティーの存在であるムスリムがマジョリティーの規則や法律を変えることができるのだろうか。もしそれが許されるなら、12月25日はクリスマスだが、この日ではなくほかの日を祝うべきだという人も出てくるだろう。混乱になる。自由を維持しながらもバランスを見つけないといけない。

――表現にはもっとケアが必要だ、と言うことか。

もちろん、そうだ。

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