東ティモール、ホルタ大統領再登板後に待つ課題 独立回復20周年、混迷の歴史から見えてくる

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東ティモール大統領選挙の結果と過去の歴史をひもとき今後を占う(写真:butenkow/PIXTA)

3月19日に開かれた東ティモールの大統領選挙には史上最多の4名の女性候補を含む16名が立候補した。しかし、過半数獲得者が出ず、東ティモール民主共和国憲法第76条に基づき、31日後の4月19日に上位2名による決選投票が行われた。

その結果、独立の英雄であるシャナナ・グスマンが党首のCNRT(東ティモール再建国民評議会)が推すノーベル平和賞受賞者で元大統領であったジョゼ・ラモス・ホルタが有権者総数の約62%を獲得して再登板となった。また、奇しくも2022年は東ティモールにとって独立(主権)回復から20周年であり、記念式典で就任式を迎える。

東ティモール独立(主権)回復までの前史

旧植民地宗主国ポルトガルでの独裁政権崩壊を受けて、1975年11月28日に東ティモールは独立宣言を行った。この日が東ティモール人にとっての独立記念日であり、2002年5月20日の国際社会がいう「21世紀最初の独立国」というフレーズは現地では「独立(主権)を回復した日」となる。

東ティモールにとって、独立宣言後の世界は12月7日のインドネシアのスハルト政権からの全面侵攻の開始であり、殺戮と支配に対するゲリラ戦による民族解放闘争の幕開けであった。1991年11月のサンタクルスの虐殺を経て、1999年8月30日の事実上の独立を問う直接投票を迎えるまでに東ティモールでは、戦闘や強権支配の中で約20万人に及ぶ犠牲者が出たと言われる。

インドネシアからの軍事侵攻当初は、国連総会や国連安全保障理事会では軍事侵攻への憂慮や即時撤退の決議が採択されていたが、1980年代前半には人権侵害状況への決議へと変わっていく。冷戦構造下の国際関係の中で、アメリカはスハルトの軍事侵攻、その後の東ティモール併合を容認した。また、日本を含め西側諸国も沈黙を守り、東南アジア諸国連合(ASEAN)も内政不干渉を掲げて、地域大国インドネシアの東ティモール併合をむしろ地域安定化の問題として受け入れるようになっていった。

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