スパイ容疑で神奈川県警が誤認逮捕 「六本木の赤ひげ」アクショーノフさんを悼む④

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当時の新聞によると、この無線機は1万キロ離れたところからモールス信号、ラジオ電波をキャッチできる高性能のもので、ソ連が東欧でスパイ用に使用していたのと同機種という。さらに先に同県警が医師法違反で摘発した川崎市の診療所長がソ連系のスパイだったことを突き止め、押収した無線機との関連を重視していると報じていた。

そして12月18日、アクショーノフさんは港区南麻布の自宅で神奈川県警に医師法違反容疑で逮捕された。さらに県警は彼の友人や知人を一連のスパイ事件に関与している疑いがあるとして逮捕した。この事件を新聞は社会面トップで「『スパイ』人脈にメス」との見出しで大々的に報道した。

セイコーのデジタル時計もロシア文字?

その決め手とされたのは、無線機の機体番号「2410」のうち、「4」がロシア語の筆記体に似ており、アクショーノフさんがラストボロフ事件の際、ソ連の工作員として名前が挙がったということだった。逮捕後、連日厳しい取り調べを受けたが、容疑を全面的に否認していた。数日後、警備部の幹部らがずらりと座った大部屋で取り調べを受けた。

幹部が「白状すれば刑は軽くしてやる」と大見得を切ったので、彼は「わかりました。でもここで話せないのはこの中にソ連のエージェントがいるからです」と大声を張り上げ、真ん前の捜査官を指差した。その捜査官がセイコーのデジタル腕時計をしていることに気がついたからだ。そしてその腕時計を借りると、手にとってかざし、「みなさん、今ここにソ連の字体の4が出ますから見ていてください。これはセイコーだけど中身はソ連の時計だと思います」と言った。すると捜査官全員が何も言わずにさっと退出してしまった。

要するに、日本の無線機はすでにデジタル信号化され、機体番号もデジタル表記になっていて、ロシア文字に似た字体だった。ところが、それを知らない警察官がその無線機の機体番号の字体から「ソ連製の無線機」と思い込んでしまったのだ。警察幹部も遅ればせながらそれに気が付き、スパイ事件は無実となった。その翌日、医師法違反で2万円の罰金を支払っただけで釈放となった。

その後、アクショーノフさんは県警幹部から食事の誘いを受け、その翌週、今度は幹部を食事に招待して一件落着となった。後に筆者に「こんな屈辱的なことは許せない。警察を相手に訴訟を起こしてやりたいと思ったが、それでは日本で暮らしていけなくなると思い直し、我慢することにした」と心境を吐露している。いずれにしろ、アクショーノフさんが米ソの2大超大国が覇権を争っていた冷戦時代の被害者であったことは間違いない。

飯島 一孝 ジャーナリスト、上智大学講師

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いいじま かずたか / Kazutaka Iijima

1948年長野県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒。71年に毎日新聞社入社。社会部、外信部などを経て91年からモスクワ特派員、95年モスクワ支局長。97年帰国し東京本社編集局編集委員、外信部編集委員、紙面審査委員会委員長などを歴任。2008年に定年退職。現在、上智大学・東京外国語大学・フェリス女学院大学の各講師。著書『新生ロシアの素顔』(毎日新聞社)、『六本木の赤ひげ』(集英社)、『ロシアのマスメディアと権力』(東洋書店)などがある。

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