他人を「バカ」と呼ぶ人に伝えたい"超・正論" ネットの匿名性に頼る「自分に甘い」人たち

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現在、世界中あらゆるところで対立が鮮明化し、分断が進んでいると言われています。その1つの原因は私たちが弁証法のことを忘れ、相手に耳を傾けなくなっているからではないでしょうか? もちろん、そんな理屈どおり簡単にいくはずはありませんが、こういったことを意識しているだけで違ってくるはずです。

それに、相手をバカと呼ぶのは不幸のタネをまく行為でもあります。相手は、当然ながら非常に不快な気持ちになり、決してそれを忘れません。いつかあなたにリベンジしたいとチャンスを狙い続けます。相手にこういうネガティブな気持ちを持ち続けさせること自体がよくないことです。そして、仕事でもプライベートでも、きっかけさえあればあなたの足を引っ張ろうとするでしょう。

不幸は連鎖する

もしあなたが、ブログ、ツイッター、インスタグラム、ユーチューブなどを使ってネット上で発信しているなら、それに対して否定的コメントを送ってくるかもしれません。いわゆるアンチという存在になってしまうのです。これはあなたにとっても、相手にとっても不幸なことです。

そして、こういう不幸は連鎖します。バカと呼ばれた人は必ず不快に感じます。そして、たとえそのストレスをあなたにぶつけなくても、もっと自分より弱い相手にぶつけるかもしれません。その人に子どもがいれば子どもにぶつける可能性は大きいと思います。親を介護している人なら、親にぶつけるかもしれません。会社の上司なら部下にぶつけるかもしれません。あるいは、どこかの店の店員にぶつけるかもしれませんし、ストレスで運転が乱暴になるかもしれません。

池に石を投げれば石が落ちたところから波紋が広がります。同じように、バカという言葉によって引き起こされた不幸の波は広がっていきます。こういったことは考えすぎでしょうか? 私はそうは思いません。人間に把握できない部分でこういったことは連鎖していくのです。

自分の言葉によって引き起こされた不幸の波を、人間はトレースし続けることなどできません。それは目には見えないのです。でも、目には見えなくてもあるのです。物理学に「物質不滅の法則」や「エネルギー不滅の法則」があるように、こういったものも姿形を変えながら残ると考えるべきです。

それに、誰かをバカと呼んでいる人の文章を読むと、それを読んだ人もよい気がしません。これもまた不幸なことです。そして、書いた人の人格を疑う気持ちも出てきます。それがどんなに素晴らしい知見に満ちた文章でも、どんなに斬新なアイデアであっても、書き手の人格に疑問符がついてしまうと素直に受け入れられなくなってしまいます

ネットでは相手の顔が見えません。ですから、相手が不快になったり傷ついたりする姿を見ずに済みます。それで、平気でバカと言ってしまうのです。でも、それは想像力の欠如です。なぜなら、顔は見えなくても相手は必ずそこに存在しているからです。そして、その人にも人間としてのリアルな生活があります。子どももいるかもしれませんし、介護している親もいるかもしれません。

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