小説家直伝「名作」を味わい尽くす意外な読み方 「こころ」をスロー・リーディングしてみる

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これは、非常に現代的な問題であり、スロー・リーダーは、ここで立ち止まって、じっくり考えてみなければならない。ここに見られるのは、人の存在意義を「有益性」(役に立つかどうか)の観点から評価しようとする功利主義的な人間観である。兄は、この時代に増えつつあったそうしたものの考え方を代表している。

同時に、すでにその後の日本の歩みを知っている私たち現代の読者は、ここに公の利益のために自身の能力を惜しみなく提供しなければならないという全体主義的な発想の萌芽を見ることもできるかもしれない。

作品の主題を現代と引き比べてみる

例えば鷗外もそうだし、バルザックのようなヨーロッパの作家にも言えることだが、社会の急速な近代化に生きた作家は、「イゴイズム」と「献身」という対立する2つの価値観に非常に頭を悩ませた。人間は、誰もが自分がかわいい。それは否定しがたい事実である。封建制度から解放された時代の人は、自由のありがたみを身に染みて感じた。

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けれども、自分がいちばん大切という考え方は、結局、「イゴイズム」に陥る。といって、ここで兄が言うように、人間は一種の義務として他人に自分の能力を提供しなければならないのだろうか? そうではなく、他者のためにあり、また自分のためにあるという生き方とは、どんなものだろうか? 

──これは、現代にも通じる深刻なテーマだ。

こんなふうにして、作品の主題を現代と引き比べて考えるということもまた、作品の読解に深みを与えるだろう。昔と比べてみて、初めて現代という時代は見えてくるのである。

私たちは、ここでいささか唐突に登場した「イゴイスト」という言葉1つで、これだけのことを考えることができた。それというのも、私たちが、この言葉の提出のされ方のほんの些細な違和感に敏感だったからこそである。

例えば、登場人物が、会話の中で茶を1杯飲むというたったそれだけの、何でこんな描写が必要なんだというような箇所にも、実は緊張から来る口の渇き、間の必要といった意味が暗示されているかもしれない。とするならば、それに続いて発せられるのは、緊張を以て語られるべき重要な言葉である可能性がある。

小説の中には、そうしたヒントがふんだんにちりばめられている。その一つひとつをどれだけ見落とさずに拾っていけるかが、より深い読解に到達できるかどうかの分かれ道となるのである。

平野 啓一郎 小説家

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ひらの けいいちろう / Keiichiro Hirano

1975年愛知県生まれ。京都大学法学部卒業。1998年、大学在学中に雑誌『新潮』に寄稿した作品『日蝕』(新潮文庫)が、“三島由紀夫の再来”として注目を集める。同作品で翌年芥川賞を受賞。2002年、2500枚を超す大作『葬送』(新潮文庫)を刊行。以後、旺盛な創作活動を続け、その作品は、フランス、韓国、台湾、ロシア、スウェーデンなど、翻訳を通じて、広く海外にも紹介されている。芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞の『決壊』(新潮文庫)、Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞の『ドーン』(講談社文庫)、渡辺淳一文学賞受賞の『マチネの終わりに』(毎日新聞出版)、読売文学賞を受賞した『ある男』(文藝春秋)などの著書がある。

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